未知日記霊話集 第千三百十七回 大霊界 緒論 後世、此書を読まんとするものありとも読むあたはず。理解することを得ざれば、如何に真実を語るとも無意味の書とならんことを、教主はよくわきまへ居らるるによって、此書の文体或は言葉等、すべてに意を用いらるる事と我等は承知す。教主は名文美文を好み給はず。後世に到って誤ちたる解釈をなすものあらば、残して詮なき廃書となるを深く慮っての教へなれば、よくよく心して教主の言葉に批判を加ふることなかれ テツシン貴尊講義

未知日記講義第一二巻  大霊界  巻の壱                 テツシン貴尊講義 緒言   教主寛大、我、テッシンを召されて曰く、汝、テッシン、我、この書を講ずるにあたり聴講者の心構へを知らしめ過失なからしむるよう、汝の口より予め彼等に語りをくべしとの命に従ひ、是より汝等に緒言として語りをくべし。 教主寛大に於かれては此書を、否此講義を最後としてすべてを語り尽さるる由なれば、 一言一句…

教主の最後の教訓

     私達に人類の至宝ともいえる大著である未知日記一連の書を遺してくださった伊東慈音先生は昭和二十八年十二月十八日に帰神されている。最後の著書である大霊界が記されたのが昭和二十六年十月十五日、教主寛大は附録としてこの大霊界の続き(大霊界の最終の門であるフア、フンの門)を語られているがそれは文章として印刷されて残されていない。秘伝書になっているのだ。すべての仕事を終えられ二年後、慈音先生は昇天…

未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百十六回 絶対界 巻の三 絶対界 第六講 心魂の存在を発見するには、言葉にては到底云ひ現はし難きが故に、斯くもむづかしき説明をなして、 諸子の自得見性を促がす材料として供し居る迄にて、 諸子の肉体の中に心が何処、魂は何処と定められたるところあるならば、一言にして教ゆることを得れども、魂の存在は、全身悉くに宿り居るが故に、何処をそれと定むること難きが故なり テツシン貴尊講義

ヒロさん転記したものをここに掲載しています 絶対界 第六講 心と霊気の交はりの関係について       テツシン貴尊講義 絶対界 第六講 心と霊気の交はりの関係について       テツシン貴尊講義  大地の恩恵を忘却して徒らに空の高きを望み居るが故に、折られ倒さるる如き過失を犯すも、是一方的にして空実一体ならざるが故なり。 魂あるが故に心は延ばされ行くは、恰も根に依て葉、分布すの比喩となるなり…

未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百十五回 絶対界 巻の三 絶対界 第六講 初対面の人に対し形を改め威儀をただすは、心をおしこめて魂を表面化なしたる姿に他ならず。 されどその魂は唯魂の余韻にすぎざるなり。 親しみを重ねるに従ひて心が表面化して、魂がかくるると見なさば魂と心との区別は察せられる筈なり テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第六講 心と霊気の交はりの関係について       テツシン貴尊講義  此時慈音曰く、我等はあさはかにして智慧なし。心と魂の区別の理は朧気ながら解することを得たれど、事実日々の生活に於て何等か他に、適当なる教へにあずかりたしと。 我、是に答ふべし。 諸子ははじめて人に対面する時形を改め威儀をただす。 是即ち魂のあらはれなり。然して次第に交はり…

未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百十四回 絶対界 巻の三 絶対界 第六講 日本の天皇宗教とも云ふべきものを例にとりて語らん。日月を霊とし、魂を天皇とし、心を文武百官と見なし、民を肉体として観察せばすべては察せられるならん。然してその四つのものをつなぐはすべて霊気なるべし。是に依てその区別を知ることを得るならんと思ふが如何 ! テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第六講 心と霊気の交はりの関係について       テツシン貴尊講義  医者の認めたる処方箋を護符と信じて服用して、病気を治癒したる老婆すらあることの例話を、諸子は記憶し居るならん。斯ることを科学的より考ふれば、実に滑稽の如く感じらるれど事実老婆にとりては真剣に考へてこれを信じた結果、暗示となりて病気の雲は払はれたるに他ならざるなり。老婆にと…

未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百十三回 絶対界 巻の三 絶対界 第六講 呪などには何万何十万と云ふ方法あり。祈禱に於ても又同様なり。是等みなその悉くが暗示の方法にすぎざるなり。 迷信にもあらず。又妄信にもあらざるなり。唯方便として人の心を執着より離れしむる方法に用い居ると知らば、敢て不審するには足らざるならん テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第六講 心と霊気の交はりの関係について       テツシン貴尊講義  従来よりのベ来りたる如く心意魂魄霊の関係は、既に諸子も解したるならん。 是等のすべては皆悉く気によつてつながれ居ることも考慮せざるべからず。心と意との陰陽関係に於ても、気によつてつながれあるが故に、ここに摩擦を生じてはたらきをなす。 魂魄の陰陽に於ても同様の関係あることも…

未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百十二回 絶対界 巻の三 絶対界 第五講 先づ心と魂との区別 自問自答の法とはこの反射力を応用して魂に迄到達せしめ、然してその魂より正しき答へをなさしめる方法に、他ならずと知らば可ならん  テツシン貴尊講義

 ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第五講 先づ心と魂との区別            テツシン貴尊講義  兎に角心のみの生活に甘んじ居りては、動物性にて終るの他なし。早くめざめて魂を見出し、是に心を委せて心魂互に融和した生活をなすことによつて、はじめて人間の姿となるなり。然らずばすべての事柄に対しての善悪邪正は知る事難し。何となれば動物性自然と、人間性自然とには大なる相違ある…

未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百十一回 絶対界 巻の三 絶対界 第五講 先づ心と魂との区別 求めよ、得られんと云ふ言葉もあるにはあらざるか。 魂に求めよ。 然せば魂は明るし。 汝の望を叶へしむるはたらきをよく知る。故に心に苦みあらばすべてを魂に求めよ。 さらば得られん。 閉されて入ることあたはずば魂に向つてたたけよ。 さらば開らかれん。敢て遠きを求めずとも近きにありと教へられ居ることは、此言葉によつて解する事を得るならんと我等は思ふが如何!  テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第五講 先づ心と魂との区別            テツシン貴尊講義  諸子は禅門の僧を見て狂人扱ひになし居ること多からん。 坐禅工夫して漸く魂を見つけたる僧に対してすら、 諸子は狂人の如く思ふならん。 さりながら現今の僧達は昔の徳者の説をとり入れて己、魂をも知らざるに是を知りたる如く吹聴して、世を害し居る人少なからずあるなり。さればこそ彼等は…

未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百十回 絶対界 巻の三 絶対界 第五講 先づ心と魂との区別 彼は時には心の人となり、時には魂の人となり、又或場合は霊の人となり居るが故に、 我等と共に語らひもし、教主の導きをも喜びて授かり居るなり テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第五講 先づ心と魂との区別                       テツシン貴尊講義  諸子は心と魂の区別を知らざるが故に、自然の理をきはむる事あたはざるなり。 心を魂と考へ居りては、到底人間の何なるかを知ることを得ざるは当然なり。人間と動物の異なる処はここにあるなり。獣類には人間に有する魂はあらずして、人間の持つ心に相当するものが彼等の…

未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百九回 絶対界 巻の三 絶対界 第四講 第四講 神我一体によって真の自由は得らるるや 九流界のクウワオは早く任務を終へて動物界を度脱して、人間界に入り度しとの望を抱きつつ生活なし居るにてはあらざるか。然るに諸子はたまたま人間に置れし此喜悦をすら感じざるは、何と云ふあさはかなる知慧ぞと、我等は痛歎するものなり。 諸子の肉体は、人間と云ふ魂を入れある器に等し。その器に囚はれてながく苦みを味ふことの非を早く覚りたるものこそ即ち神の子なるべし テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第四講 神我一体によって真の自由は得らるるや          テツシン貴尊講義  是等の理を深く考へ見ば自由とは如何なるものか又自然とは如何なるものかの想像は得らるる筈なり。 現今汝等が世界の自由主義と称し居る法則は、すべて天理に作る主義なるによつて、是は肉体本位の自由となりて、 人間性の自由に欠くるところ多し。 故に争闘の絶間なきなり。 …

未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百八回 絶対界 巻の三 絶対界 第四講 第四講 神我一体によって真の自由は得らるるや 近来の科学者が心霊とか称して、妖怪を彼是論じ居る如き愚昧なるいたづら事は、恰も小児が玩具を以て遊ぶに等し。斯るものは霊にあらず。故に斯る考へを以て研究なし居る間は、到底霊はおろか神を知る如きことは及びもつかざるなり。 既に二流界の人類ともならば斯るたはむれごとは小児と雖もなさざるなり テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています  絶対界 第四講 神我一体によって真の自由は得らるるや          テツシン貴尊講義  近来の科学者が心霊とか称して、妖怪を彼是論じ居る如き愚昧なるいたづら事は、恰も小児が玩具を以て遊ぶに等し。斯るものは霊にあらず。故に斯る考へを以て研究なし居る間は、到底霊はおろか神を知る如きことは及びもつかざるなり。 既に二流界の人類ともならば斯るたはむれご…

未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百七回 絶対界 巻の三 絶対界 第四講 第四講 神我一体によって真の自由は得らるるや 末来は遠し。諸子は未だ小さき心をすてかねて、其にのみ囚はれ居るにてはあらざるか。日々の世渡りに於ても彼是わづかなることに囚はれて、其にのみ拘泥して或は嘆き或は喜悦ぶ。 或は怒り唯徒事に心を労し居りては、我等の説を聞きても机上の空論と思ふの他なかるべし。 早くめざめて広大無辺の霊界にまなこをむけよ。 然して机上の空論と思ふことを早く事実に於て、体得せられん事を我等は望むものなり テツシン貴尊講義

 ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第四講 神我一体によって真の自由は得らるるや          テツシン貴尊講義   心魂の一体化は至極簡単の如く感じらるれど事実は左にあらず。 仏書にもある煩悩の犬は追へ共去らず。 菩提の鹿は招けども来らずと云ふ言葉もあるなり。即ち雑念妄想は容易に失するものにあらず。 明らかなる光明はその雲にとざされて光は容易に輝きを増すことの困難なるを…

未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百六回 絶対界 巻の三 絶対界 第四講 第四講 神我一体によって真の自由は得らるるや されば基礎となるべき心魂一体の方法を知りて、其によって行じ居らば、第二段の魂霊一体は学ばずともなし遂げらるることは云ふ迄もなし。 魂霊一体の法を知るをさとりと云ふなり。 さとれば最早霊神一体の法など自づと自得するによって、ここに初めて神を知るに至る。 故に大切なるものは心魂一体の法にして、又その行の困難なることは筆舌の及ばざる程苦き行をなさざるべからず テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第四講 神我一体によって真の自由は得らるるや          テツシン貴尊講義       此講目の如く神我一体とならば不自由の束縛は解かれて解放せらるるやと云ふに対し、諸子は更に迷ひを深くするならん。神ありと思ふ心にすら不自由を感ずるに、神に交はらば尚更窮窟となりて、己が欲するがままの行動はなし難からんとの思ひを抱くならん。 諸子は神あり…

未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百五回 絶対界 巻の三 絶対界 第三講 自然と自由の関係について 汝の魂を神として敬へよとの意味にて、神を作れよとは即ち方便に用いたる言葉と知らば可ならん。 然らずば真の神を求むるとも得難し。 先づ汝の魂として日々の生活をなし居らば、其にて人間の一歩は得られたるなり テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第三講 自然と自由の関係について              テツシン貴尊講義 第三講  諸子は従来学び来りたる魂心一体の理は既に承知なし居るならん。 我に魂ありと云ふことは既に諸子も知り居る筈なり。されば我等が語り来りたる理論より推測する時は、帰するところ神我一体とは魂心一体の生活せよと語りしにすぎず。斯く語らば諸子は思ふならん。 魂心は一体…

未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百四回 絶対界 巻の三 絶対界 第三講 自然と自由の関係について 孝子の話によれば我等神を見たることなし。 又君主も尊きかは知らねど、我等は何等の直接の恵をうけしを知らず。故に我にとりては親程尊きものはなし。 親去りし後は親は天界より我行動 を見守り給ふ故、親を離るることあらねば、親程尊きものはあらじ テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第三講 自然と自由の関係について              テツシン貴尊講義 第三講  其は兎に角神我一体となる事の理を解したるならば、 如何にせばなし得らるるかの法を修めざるべからず。神の存在の有無を先づ捨てて兎に角神ありとの念を貯へよ。然してその神は我に来り我を守り給ふとの念を深くせざるべからず。諸子は神を知らんとして神の形を追ひ求むるが…

未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百三回 絶対界 巻の三 絶対界 第三講 自然と自由の関係について 慈音のみならば最 早何等の教へをなすの要もあらざるなり。唯諸子を導かんがための役目を架せられたるが故に、彼は両道に立ちて行の苦みをなし居るにすぎざるなり。此書を読むもの慈音に対しても深く感謝せざるべからず テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第三講 自然と自由の関係について              テツシン貴尊講義 第三講  泰岳は自然を尊び自然を認知なし居るが故に、斯る事を伝ふるに対しても、決して偽はりとは思はざるなり。さればこそ彼は慈音の耳をふさぎたるなり。即ち慈音は大自然と小自然の中間に立ちて行じ居るによって、初心者の行とは大に異なる事を知りて、慈音の行に妨害となることを…

未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百二回 絶対界 巻の三 絶対界 第三講 自然と自由の関係について 円海は事実に於て泰岳の行ひを見て驚嘆する他なかりしなり。 我かく語るとも諸子は事実に於て見聞せざる故に、到底この言葉をすら信ずること難かるべし。 ものの理をきはむればかかる事のなし得るは当然にして、決して不思議するに足らざるなり。其は理を知らざるが故なり テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています  絶対界 第三講 自然と自由の関係について              テツシン貴尊講義 第三講  諸子は恰も是等を具備する僧に等し。 名づけて是を仏法僧の三宝と見るも可ならん。仏は神なり。自然は法なり。是を用ゆるは僧に相当する諸子なるべし。故に空なる神を己にとり入れて我ものとなし、然してそのものと我と一体化して世渡りし居らば、 決して誤謬を犯すものに…

未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百一回 絶対界 巻の三 絶対界 第三講 自然と自由の関係について 泰岳は一椀の食をとるに対しても己のみ喰ふにあらず、神と共に食するなりと聞かされしにてはあらざるか。諸子は唯訳もなく喰ふによつてその食は死したる食となるなり。 神と共に食するが故に、その食は活力となるなり。故に真の自由は得らるるなり テツシン貴尊講義

絶対界 第三講 自然と自由の関係について              テツシン貴尊講義 第三講 自然と自由の関係について  諸子は神を知りて神と共に生活する事あたはざるは、即ち自然の道理を体得なし居らざるが故なり。 神の存在の有無を論ずることを暫く止めよ。 兎に角自然と云ふ事に対して、自然は神なりとの思ひを抱きて日々の生活をこの自然に任せてつとめする事に努力せば、その姿こそ即ち神と共に生活し居ると…

未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百回 絶対界 巻の三 絶対界 第二講 大自然と小自然の関係 六月十日 (昭和二十五年) こだま会に於て円海も泰岳も神と共に生活せよと教へしにはあらざるか。神と共に生活すると云ふは即ち自然に順ぜよと云ふ事に他ならず。諸子は常に神は神、生活は生活として区別なし居るがために、自然に順ずることあたはずして、却て不自由の営みをなし居るなり。 神と共に生活なし居らば真の自由は得らるる筈なり テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています  絶対界 第二講 大自然と小自然の関係             テツシン貴尊講義  すべて呪とか呪文とか、或は行者の法力のうち印を結び九字を切る等々の方法に於ても、現今の学理にては迷信盲信として省顧(かえりみ)ざるは、即ち自然の道理を知らざるが故なり。空には空の自然あり。実には実の自然あり。 空の自然は大自然にして、実の自然は小なりとしてすべてを考察…

未知日記霊話集未知日記霊話集 第千二百九十九回 絶対界 巻の三 絶対界 第二講 大自然と小自然の関係 諸子はその物品を常に忘れず用い使用し居らば、従つて芽を出し花と開らくこと疑ひなく、又呪を間断なく持続し居らば何日しかその法力によって招魂はもとより遊魂の法に至る迄、自得することを得るは大自然の法力がかくなさしたると知らば可ならん テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています  絶対界 第二講 大自然と小自然の関係             テツシン貴尊講義  諸子は斯るものを見て形に囚はれ居るが故に、珍らしきとか有難しとか云へる念の生ずるならん。されど斯る誤ちたる念は早く明らめよ。 然して正しき自然より是を見なほすならば唯訳もなきものにて、形状の異なりたるにすぎざるなり。何等意とするに足らずと知るべし。 兎に角大自然とは零…