未知日記講義第一二巻 大霊界 巻の壱 テツシン貴尊講義 緒言 教主寛大、我、テッシンを召されて曰く、汝、テッシン、我、この書を講ずるにあたり聴講者の心構へを知らしめ過失なからしむるよう、汝の口より予め彼等に語りをくべしとの命に従ひ、是より汝等に緒言として語りをくべし。 教主寛大に於かれては此書を、否此講義を最後としてすべてを語り尽さるる由なれば、 一言一句…
私達に人類の至宝ともいえる大著である未知日記一連の書を遺してくださった伊東慈音先生は昭和二十八年十二月十八日に帰神されている。最後の著書である大霊界が記されたのが昭和二十六年十月十五日、教主寛大は附録としてこの大霊界の続き(大霊界の最終の門であるフア、フンの門)を語られているがそれは文章として印刷されて残されていない。秘伝書になっているのだ。すべての仕事を終えられ二年後、慈音先生は昇天…
ヒロさん転記したものをここに掲載しています 絶対界 第六講 心と霊気の交はりの関係について テツシン貴尊講義 絶対界 第六講 心と霊気の交はりの関係について テツシン貴尊講義 大地の恩恵を忘却して徒らに空の高きを望み居るが故に、折られ倒さるる如き過失を犯すも、是一方的にして空実一体ならざるが故なり。 魂あるが故に心は延ばされ行くは、恰も根に依て葉、分布すの比喩となるなり…
ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第六講 心と霊気の交はりの関係について テツシン貴尊講義 此時慈音曰く、我等はあさはかにして智慧なし。心と魂の区別の理は朧気ながら解することを得たれど、事実日々の生活に於て何等か他に、適当なる教へにあずかりたしと。 我、是に答ふべし。 諸子ははじめて人に対面する時形を改め威儀をただす。 是即ち魂のあらはれなり。然して次第に交はり…
ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第六講 心と霊気の交はりの関係について テツシン貴尊講義 医者の認めたる処方箋を護符と信じて服用して、病気を治癒したる老婆すらあることの例話を、諸子は記憶し居るならん。斯ることを科学的より考ふれば、実に滑稽の如く感じらるれど事実老婆にとりては真剣に考へてこれを信じた結果、暗示となりて病気の雲は払はれたるに他ならざるなり。老婆にと…
ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第六講 心と霊気の交はりの関係について テツシン貴尊講義 従来よりのベ来りたる如く心意魂魄霊の関係は、既に諸子も解したるならん。 是等のすべては皆悉く気によつてつながれ居ることも考慮せざるべからず。心と意との陰陽関係に於ても、気によつてつながれあるが故に、ここに摩擦を生じてはたらきをなす。 魂魄の陰陽に於ても同様の関係あることも…
ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第五講 先づ心と魂との区別 テツシン貴尊講義 兎に角心のみの生活に甘んじ居りては、動物性にて終るの他なし。早くめざめて魂を見出し、是に心を委せて心魂互に融和した生活をなすことによつて、はじめて人間の姿となるなり。然らずばすべての事柄に対しての善悪邪正は知る事難し。何となれば動物性自然と、人間性自然とには大なる相違ある…
ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第五講 先づ心と魂との区別 テツシン貴尊講義 諸子は禅門の僧を見て狂人扱ひになし居ること多からん。 坐禅工夫して漸く魂を見つけたる僧に対してすら、 諸子は狂人の如く思ふならん。 さりながら現今の僧達は昔の徳者の説をとり入れて己、魂をも知らざるに是を知りたる如く吹聴して、世を害し居る人少なからずあるなり。さればこそ彼等は…
ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第五講 先づ心と魂との区別 テツシン貴尊講義 諸子は心と魂の区別を知らざるが故に、自然の理をきはむる事あたはざるなり。 心を魂と考へ居りては、到底人間の何なるかを知ることを得ざるは当然なり。人間と動物の異なる処はここにあるなり。獣類には人間に有する魂はあらずして、人間の持つ心に相当するものが彼等の…
ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第四講 神我一体によって真の自由は得らるるや テツシン貴尊講義 是等の理を深く考へ見ば自由とは如何なるものか又自然とは如何なるものかの想像は得らるる筈なり。 現今汝等が世界の自由主義と称し居る法則は、すべて天理に作る主義なるによつて、是は肉体本位の自由となりて、 人間性の自由に欠くるところ多し。 故に争闘の絶間なきなり。 …
ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第四講 神我一体によって真の自由は得らるるや テツシン貴尊講義 近来の科学者が心霊とか称して、妖怪を彼是論じ居る如き愚昧なるいたづら事は、恰も小児が玩具を以て遊ぶに等し。斯るものは霊にあらず。故に斯る考へを以て研究なし居る間は、到底霊はおろか神を知る如きことは及びもつかざるなり。 既に二流界の人類ともならば斯るたはむれご…
ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第四講 神我一体によって真の自由は得らるるや テツシン貴尊講義 心魂の一体化は至極簡単の如く感じらるれど事実は左にあらず。 仏書にもある煩悩の犬は追へ共去らず。 菩提の鹿は招けども来らずと云ふ言葉もあるなり。即ち雑念妄想は容易に失するものにあらず。 明らかなる光明はその雲にとざされて光は容易に輝きを増すことの困難なるを…
ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第四講 神我一体によって真の自由は得らるるや テツシン貴尊講義 此講目の如く神我一体とならば不自由の束縛は解かれて解放せらるるやと云ふに対し、諸子は更に迷ひを深くするならん。神ありと思ふ心にすら不自由を感ずるに、神に交はらば尚更窮窟となりて、己が欲するがままの行動はなし難からんとの思ひを抱くならん。 諸子は神あり…
ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第三講 自然と自由の関係について テツシン貴尊講義 第三講 諸子は従来学び来りたる魂心一体の理は既に承知なし居るならん。 我に魂ありと云ふことは既に諸子も知り居る筈なり。されば我等が語り来りたる理論より推測する時は、帰するところ神我一体とは魂心一体の生活せよと語りしにすぎず。斯く語らば諸子は思ふならん。 魂心は一体…
ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第三講 自然と自由の関係について テツシン貴尊講義 第三講 其は兎に角神我一体となる事の理を解したるならば、 如何にせばなし得らるるかの法を修めざるべからず。神の存在の有無を先づ捨てて兎に角神ありとの念を貯へよ。然してその神は我に来り我を守り給ふとの念を深くせざるべからず。諸子は神を知らんとして神の形を追ひ求むるが…
ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第三講 自然と自由の関係について テツシン貴尊講義 第三講 泰岳は自然を尊び自然を認知なし居るが故に、斯る事を伝ふるに対しても、決して偽はりとは思はざるなり。さればこそ彼は慈音の耳をふさぎたるなり。即ち慈音は大自然と小自然の中間に立ちて行じ居るによって、初心者の行とは大に異なる事を知りて、慈音の行に妨害となることを…
ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第三講 自然と自由の関係について テツシン貴尊講義 第三講 諸子は恰も是等を具備する僧に等し。 名づけて是を仏法僧の三宝と見るも可ならん。仏は神なり。自然は法なり。是を用ゆるは僧に相当する諸子なるべし。故に空なる神を己にとり入れて我ものとなし、然してそのものと我と一体化して世渡りし居らば、 決して誤謬を犯すものに…
絶対界 第三講 自然と自由の関係について テツシン貴尊講義 第三講 自然と自由の関係について 諸子は神を知りて神と共に生活する事あたはざるは、即ち自然の道理を体得なし居らざるが故なり。 神の存在の有無を論ずることを暫く止めよ。 兎に角自然と云ふ事に対して、自然は神なりとの思ひを抱きて日々の生活をこの自然に任せてつとめする事に努力せば、その姿こそ即ち神と共に生活し居ると…
ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第二講 大自然と小自然の関係 テツシン貴尊講義 すべて呪とか呪文とか、或は行者の法力のうち印を結び九字を切る等々の方法に於ても、現今の学理にては迷信盲信として省顧(かえりみ)ざるは、即ち自然の道理を知らざるが故なり。空には空の自然あり。実には実の自然あり。 空の自然は大自然にして、実の自然は小なりとしてすべてを考察…
ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 絶対界 第二講 大自然と小自然の関係 テツシン貴尊講義 諸子は斯るものを見て形に囚はれ居るが故に、珍らしきとか有難しとか云へる念の生ずるならん。されど斯る誤ちたる念は早く明らめよ。 然して正しき自然より是を見なほすならば唯訳もなきものにて、形状の異なりたるにすぎざるなり。何等意とするに足らずと知るべし。 兎に角大自然とは零…