未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百四回 絶対界 巻の三 絶対界 第三講 自然と自由の関係について 孝子の話によれば我等神を見たることなし。 又君主も尊きかは知らねど、我等は何等の直接の恵をうけしを知らず。故に我にとりては親程尊きものはなし。 親去りし後は親は天界より我行動 を見守り給ふ故、親を離るることあらねば、親程尊きものはあらじ テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています


絶対界 第三講 自然と自由の関係について 
            テツシン貴尊講義



第三講


 其は兎に角神我一体となる事の理を解したるならば、 如何にせばなし得らるるかの法を修めざるべからず。神の存在の有無を先づ捨てて兎に角神ありとの念を貯へよ。然してその神は我に来り我を守り給ふとの念を深くせざるべからず。諸子は神を知らんとして神の形を追ひ求むるが故に、神を知ることを得ざるなり。 既に諸子の肉体には神の影宿り居るにはあらざるか。形など追ひ求めずとも既に諸子の肉体に神あるが故に、諸子は生存なし居るなり。もし神が諸子をはなるれば、 諸子の肉体は忽ち火中せらるるか、土中に埋めらるるの他なかるべし。此考へを早く思ひ浮べよ。是即ち神我一体の法なり。
 是等は宗教者が諸子に、神仏の広大なることを知らしめんがために、種々様々の絵空事を以て教へ居るため、其が却て邪魔となり、幻影を追ひ求める結果となりたるが故に諸子は、神と云ひ仏と云へば或は幻影を、或は幻声を追ひ求めて、外を探り内を顧ざる結果となり居るなり。神は遠きにあらずとしばしば語り居るに不拘、諸子は遠き空を仰ぎて、神を求め居るは是みな宗教者の教へかたが誤り居る故なり。是等もみな大自然と小自然の理を知らざるが故に、斯る迷ひを誘発したることに思ひを変へよ。 然して諸子の心に否諸子の魂に、神の宿り居ることに覚醒(めざ)むれば、神と共に生活は営まるる筈なり。帰するところは諸子は神なり。 諸子は仏なり。諸子の肉体は諸子の心は人なり。 人と神と一体となりて世渡りをなし居らば、其にて大自然に順ずる道は開らかるる筈なり。
 即ち諸子は霊と云ふ絶対性より、魂と云ふ相対に、更に心と云ふ複々相対に化せられ居るによって、心のみはたらかせ居りては、小自然の生活をなすにすぎざるなり。 末知日記前巻に於て、孝子が世の中に親ほど尊きものはなしと語りたる、 例話を記憶なし居るならん。 諸子は親のありしことを知るならば、その親を生みたる親、更にその親を生みたる親のありし事も察せられるならん。孝子の話によれば我等神を見たることなし。 又君主も尊きかは知らねど、我等は何等の直接の恵をうけしを知らず。故に我にとりては親程尊きものはなし。 親去りし後は親は天界より我行動
を見守り給ふ故、親を離るることあらねば、親程尊きものはあらじと語りたりと云ふにてはあらざるか。 親を知るに諸子は己に宿されたる魂を知らじと云ふ事のあるべき。 諸子も親を知るならん。然るにその親の有難味を感ぜざるは親と共に生活なし居らざるか故なり。所謂親よりはなるるによつてなり。仮にその親を神として考へ見よ。神にして親の如き姿を有するならば、諸子はその神をも離るる事もあるならん。 子にして親を知りながら姿あればこそ親を離るるなり。親死してのち親の事を思ひ出して己が不孝なりしを悔ゆる如きは、親を離れし後、一体化せんとの心より出でる現はれならんとは考へざるや。姿を有する間は相争ひ、姿失せて悔ゆる如きは何故ぞと深く考慮し見よ。然る時は親子一体の生活の如何なるかをも知り、其によって更に神我一体の理をも覚る事を得るならん。 姿あらば相争ひ姿なければ是を慕ふ。神にして姿あらば諸子は神と争ひをなすならん。姿なきが故に、神を慕ふとは考へざるや。大自然と小自然の区別は斯る事に於てもさとる事を得るなり。

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