未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百五回 絶対界 巻の三 絶対界 第三講 自然と自由の関係について 汝の魂を神として敬へよとの意味にて、神を作れよとは即ち方便に用いたる言葉と知らば可ならん。 然らずば真の神を求むるとも得難し。 先づ汝の魂として日々の生活をなし居らば、其にて人間の一歩は得られたるなり テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています


絶対界 第三講 自然と自由の関係について 
            テツシン貴尊講義

第三講


 諸子は従来学び来りたる魂心一体の理は既に承知なし居るならん。 我に魂ありと云ふことは既に諸子も知り居る筈なり。されば我等が語り来りたる理論より推測する時は、帰するところ神我一体とは魂心一体の生活せよと語りしにすぎず。斯く語らば諸子は思ふならん。 魂心は一体化せずとも我にある以上、そのまま生活なし居らば其にて可ならんと。諸子の心は、諸子の知慧は斯る極端性を有するが故に、ここに迷ひを生じ誤ちを犯すなり。故に是を知る我等は一歩進めて神我一体の生活をなせよと教へ居るなり。末知日記前巻に於て或僧が、無条件に阿弥陀を念ぜよ。 彼是智慧をはたらかせて学理より、或は智慧より、念仏の理を明らめんとなす勿れと云へる如き意味の事を語りあるを思ひ浮べよ。 学問智識によりて覚りたる念仏は相対性にして小自然なり。 されど無条件に念仏するは即ち大自然の法則に従へよとの意味ならんと我等は思ふが如何! 彼是思ひ惑ひて念仏せば、其は一体化にあらず。二道の関係あるによって小自然の法にすぎず。 すべての理論理窟を取り去りて、絶対服従の念仏とならば、即ち仏我一体の法則なるによって、同一経路を一体化して歩む姿と見なすも可ならん。 弥陀と共に歩み弥陀と共にすべての事にあたるならば、其によって真の自由は得らるるに反し、智慧学問によりてさとりたる念仏ならば、弥陀と我との対立となりて、或時は弥陀に順じ、或時は弥陀にはなる。故に是は一体化にあらざるが故に、或は縛ばられ或は離れたりなどなすによって、時には楽み時には苦む。是小自然の法則によるが故なり。不自由の束縛を早く離れよと教へしは、即ち神我一体の生活をなせよと云ふにすぎざるなり。 魂と肉体とは離れ難き関係に置れあるに不拘、諸子は時によりては魂を離れて心身の交はりに任すること多し。其は魂に対して感謝の思ひうすきが故なり。 よつてその魂なるものを仮に神として尊ぶならば、 何とて魂の眼をのがれんとするが如き過失は犯さざるべし。 神を知らずとも神は汝にあるなりと教へしに不拘、諸子は己が魂を価値なきものとして放棄なし居ることを知るによって、種々様々の方面よりかかる理論を力説して導きをなし居るなり。 神を知らずともよし神を作れよと云ふも、真の神を語るにあらず。汝の魂を神として敬へよとの意味にて、神を作れよとは即ち方便に用いたる言葉と知らば可ならん。 然らずば真の神を求むるとも得難し。 先づ汝の魂として日々の生活をなし居らば、其にて人間の一歩は得られたるなり。

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