私は北陸の片田舎に住む、年齢75才になる老人です。
およそ40年くらい前に不思議な書物を手にしました。
その書は戦時下七年間に渉り一人の盲目の老人によって執筆されたものです。執筆と云うよりも天の僕方によって書かされたものです。戦後、志ある人たちが自費出版という形で世に送りだしたもので、今は絶版になっております。書籍は全十二巻、あの聖書のおよそ五倍くらいの量になります。一冊読み終えるのもなかなか至難で、文章はすべて格調たかい文語体で綴られています。いままで全巻読まれた方はおそらく全国で五〇名にも満たないはずです。でもその殆どの方は既に逝去されておられます。ということは現在は指折り数えるだけの人しか生存されておられません。その奇跡とも云うべき書が何十年間も地下に埋没された状態にあるのが不思議に思い、その書の紹介をするために慣れぬブログを始めました。なかなか人には信じてはもらえそうもありませんが、真実、この書は高級神霊の方々が天界の事を肉声で語っておられます。まずはその書の真贋をご自身の眼で確かめるべく心を込めてご精読ください。
此書の厳戒の辞の解説の一部に次の言葉が語られていますので転用します。
「慈音よ。我等が汝に教へつつありたることは決して無意義にはあらず。汝は天界より是を見るあらん。我等の教へは次第に普及され、一部は削除せらるるあれば、一部は加わる等あれども原本はその儘残されん。各国は奪い合ひて是を読み、東洋は東洋人に、西洋は西洋人に委ねずば永遠の平和は望まれじとの声喧(かまびす)しくなり、日本を滅ぼすなかれの声、次第に起り来たらん。慈音よ汝の努力は決して無意味にはあらざるぞ。悲観せず気力を落とさず、教主の命に従い、生命あらん限り教へを受けて是を中外に発揚せよ。
汝等は厳戒の辞に依って運命の開拓を計るべし」と
更にこの神の下僕は次のように語っておられます。
「今世人の宗教信仰の姿を見るに、その多くは一時のがれの信心なることによって、神仏を拝み居るにすぎず。信仰は永久ならざるべからず。一時のがれの信心は空し。現今日本には何百種の宗教現出なし居りてみな其々神仏を語り居れど、一つとして正しきものはあらざるなり。凡ては一時的にして永久のものにあらず。是等のものは学理進まば何時かは自然消滅の他なかるべし。例へば釈迦イエスの如き宗教者が語り伝へ居る神仏は慈悲なり、愛なりと説きたるに対して、その慈悲と愛より更に枝葉が伸び広がり、今日の如く何百種かの宗教が生れたるにてはあらざるか」と、
更に貴尊は此未知日記全書が持つ意義について次のように語られておられます。
「キリストも釈迦も一法を以て導かんとなしたるに不拘、弟子達はその大意を悟らず、とやかくと道を造りたるため却てその一法すら傷けたるにてはあらざるか。是にはその時節の変化によりて、新らしき道を作りて今日に至りたるため、旧道は却てすたれ行く傾向のあるは是非もなきことなり。我等の世人に伝ふる道は時節の変化によって異なるものにあらず。如何に世の中の様が変化すとも、我等の教ゆる道は決して変化することなしと断言して憚らざるものなり。何故かと云ふに人に宿りし魂は、人間のあらん限り変化するものにあらざるなり。唯変化するものは智慧の程度に他ならず。智慧は魂を育つる肥料なるが故に、魂の稔りかたは異なると雖も魂は決して失はるるものにあらず。故に不滅の魂を不滅の世界に運び入るる道には、決して変ることはあらざるなり。我等の教へは智慧の程度が進めば進む程、道は明らかとなるによって我等の説は確定せらるるが故に、不変なりと断言して憚らざるなり。
今語り居る説は現代人の智慧の程度にては、種々様々の論議は醸さるるならん。されど人智が向上発達するに従ひて、我等の説は明らかに証明せらるることは云ふ迄もなし。今語り居る説を聞きて実に尤もとさとる人は少なし。故にこの書は現代人には眼を向くる人は少なからん。されど世の中が進むに従ひてその後初めて、我等の説に眼を向け耳を籍す人は多かるべし」。
この未知日記の書を預かっておられる方は東京にお住まいの松尾東平さんという97才の御老人です。コメントしていただければ、彼の住所とtel番号をお知らせします。この方は晩年の慈音師の信仰生活の一部始終を熟知された唯一の人です。そして彼は既成、新興を問わず一切の宗教組織、団体とは全く無縁の方であることをも併せて付言しておきます。
付記
残念なことに松尾さんは二年前に亡くなられました。今一度お会いして色々な事をご教授して戴きたいことがありました。とても残念です。彼の御冥福を心からお祈り申し上げます。きっと慈音師は松尾さんの魂を高い高い天界へお導きなされたことでしょう。