第二十六回 「正観さんの最後の著書 淡々と生きる」より 「手塚治虫とお母さんその2」 小林正観 著作
正観さんの話の続き・・・・・ 子育てに対して親が本当の愛情で臨みさえすれば、天才を本当の天才に育ててやることができます。しかし親が自分の思いを押し付ければ押し付ける程、天才はどんどん芽をむしり取られる。むしり取られて、丸裸になる。 母親が子育てという名の下で苦労しているのはなぜか。なぜ楽しいはず... 続きをみる
第二十六回 「正観さんの最後の著書 淡々と生きる」より 「手塚治虫とお母さんその2」 小林正観 著作
正観さんの話の続き・・・・・ 子育てに対して親が本当の愛情で臨みさえすれば、天才を本当の天才に育ててやることができます。しかし親が自分の思いを押し付ければ押し付ける程、天才はどんどん芽をむしり取られる。むしり取られて、丸裸になる。 母親が子育てという名の下で苦労しているのはなぜか。なぜ楽しいはず... 続きをみる
第二十五回 「正観さんの最後の著書 淡々と生きる」より 「手塚治虫とお母さんその1」 小林正観 著作
正観の話、・・・・・ 母親論でいえば、母親が子供を褒めると、子供ぐんぐん成長します。その褒め方にはちゃんとした方法があります。一番大事なことは、順位を褒めるのではなく、ありのままの子供を褒めることです。あなたのやさしいところが大好きなのよ、というように。 手塚治虫という人がいました。漫画の天才... 続きをみる
第二十四回 「正観さんの最後の著書 淡々と生きる」より 「一切衆生悉皆有仏性」 小林正観 著作
「正観さんの言葉」 私たちの魂というのは生まれながらにして水晶玉、きれいなクリスタルです。透明で誰が見てもきれいなのです。ところが、一方に教育というものがある。小、中、高校、大学があって、会社があって、家庭があって、という具合に社会全体が、競うこと、比べる事、争うことを教え込みます。競争に勝ち抜... 続きをみる
第二十三回 「正観さんの最後の著書 淡々と生きる」より 「人の運命は全部きまっている」 小林正観 著作
小林正観の場合・・・・・ 正観さん曰く、 私は、二十一歳で父親にでていけと言われて、家を出ました。 ス-パ-マ-ケットを経営している父が、家業を継げと迫ったからです。それまでの二十一年間、父は私に対して、親の家業を継ぐような意気地のない男になるなと教育してきました。子孫に美田は残さない、それが... 続きをみる
第二十二回 「正観さんの最後の著書 淡々と生きる」より 「病を得てわかったことその②」 小林正観 著作
正岡子規の写真 正観さんのお話・・・・・・ その言葉を目にして、「そうか、現役で死ぬというのは、まだまだだな」と私は思い直しました。生きることに執着はないし、死ぬことは平気ですが、平気で生きるというのは、そんなにわかつている話ではなかったのです。本当にわかった人は、なにがあっても平然と生きてい... 続きをみる
第二十一回 「正観さんの最後の著書 淡々と生きる」より 「病を得てわかったことその①」 小林正観 著作
正岡子規画像 正観さんの話その① 私が発病したのは2009年の十月。段々悪化して2010年の11月から、人工透析を受けることになりました。一日おきに病院に行って、、日本中を回りながら人工透析を受ける。旅する人工透析者です。いつ死んでもかまわないと思っていますが、体をいといながら何もしないでい... 続きをみる
第二十七回 「正観さんの最後の著書 淡々と生きる」より 「1200年ぶりに時代の潮流をつくる」 小林正観 著作
正観さんのお話・・・・・ 私たちはそういう縁をもって今生に生まれてきました。 何をしに来たかというと、1200年ぶりに時代の潮流をつくる、ある種の流れ、ある種の風潮をつくるためです。ある種の流れ、ある種の風潮とは、「争わないで、戦わないで、目の前の人を一人一人、全部味方につけて生きていく」という... 続きをみる
高橋信次さんがよみがえった記憶で書いた「人間釈迦」という書物は、仏教上のわからなかったところを説明し、釈迦のすごさを高橋さん風にいろいろ教えています。面白いのは、蘇った記憶に従って書き続けていったところ、「人間釈迦」以外にも本が何冊もできて、仏教の研究家にすごい衝撃を与えたというところ。出席し... 続きをみる
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言い続けた「ありがとう」が臨界点を超える時 小林正観さんの話 その二
正観さんの話の続き そういう気持ちで、コーヒカップ、皿・・・・身の回りのものを見たら、そのコーヒカップや皿が、優しい気持ち、感謝の心、ありがとうの心で、自分の方に話しかけてくるのを感じたというのです。 そして、自分のほうこそ、感謝したいという気持ちになっていった。それで、一つひとつについて... 続きをみる
言い続けた「ありがとう」が臨界点を超える時 小林正観さんの話 その一
「ありがとう」という言葉は、ものすごく力を持っているので、なるべく多く言つたほうがいい。でも、その時に別に心がこもってなくてもいいらしい。 普通よく聞く話は、すべてのことに心から感謝して「ありがとう」を唱えなさい、というものです。しかし、私の話はそうではなく、かたちだけでいいから「ありがとう」を唱... 続きをみる
小林正観さんの話、続き 「啼かなくていいホトトギス」より 仮に、10人の茶飲み友達がいたとします。月に一回集まってお茶を飲み、あるいはコーヒを飲み、ケーキを食べるという仲間がいるとします。その10人が集まって、10人が10人ともこんな話をします。 「この一か月で、こんな楽しい宇宙の法則を見つけま... 続きをみる
小林正観さんの話その二 「啼かなくていいホトトギス」より うまくいきはじめたときに、どんどんどんどん食べ物が変わり、おいしいものに変わると、必ず衰運になるというのです。 そして、どんなにお金が入ってこようと、お金持ちになろうと、食が変わらず、同じように普通の食べ物を食べている人は、貧相であろう... 続きをみる
「小林正観さんの「啼かなくていいいいホトトギス」より 世の中にはたくさんの問題があるようです。 政治の問題、経済の問題、教育の問題 もう数え上げればきりがないほどに、これが問題だ、あれが問題だ、ということが出て来るにちがいありません。ですが、私は宇宙の法則なり方程式なりを研究していて、こういうこと... 続きをみる
第十七回 「淡々と生きる」 知恵遅れの娘 十月十二日は正観さんの命日だ 小林正観 著作
小林正観さんは2011年10月12日、午前五時四十一分永眠されました。 「知恵遅れの娘」 小林正観 自分の周りの人が病気になったとします。「ああ、私の代わりにあなたが浴びてくれたのね」と思えたら、病気になつたその人に感謝するようになります。 私の場合、妻が私の発病にあわせるように同じ... 続きをみる
小林正観さんの著書「淡々と生きる」より転記 天皇の言葉の中には、見ず知らずの人も、その辺りを通り過ぎる全く知らない人も含まれいます。私は残念ながらそんな風にはなれない。そこまでは行けない。でも私の友人である目の前にいる六百人のためだったら、その一部を肩代わりをしてもいいと思った。私は、友人たちの... 続きをみる
小林正観さんの著書「淡々と生きる」より その十一月から遡ること五カ月、忘れもしない六月三十日に聞いた言葉があります。我が人生を根源的に揺るがしたものすごい言葉でした。 私たちは、伊勢神宮への夜間参りをする習わしがありました。2006年から六回続く私たちの最大の行事で、日の暮れた午後八時からお参... 続きをみる
第十三回 三蔵法師の凄さ 二回目 最後の著書 「淡々と生きる」 小林正観さん
小林正観さんの著書「淡々と生きる」より 口を付けた途端に、老婆はボッと音を発して突然十メートルぐらいの光の柱になった。大きな柱の中に、観音様が立っていた。老婆は、観音様の化身だったのです。 薄汚れた老婆から姿を変えた観音様は、「玄奘よ。お前はどれほどの人物かがよくわかった」と言います。観音様... 続きをみる
第十二回 三蔵法師の凄さ 一回目 最後の著書 「淡々と生きる」 小林正観さん
小林正観の著書である「淡々と生きる」を読みました。僕の知らない三蔵法師のことが書かれていました。とても感慨深い内容でしたので皆さんもどうぞお読みください。 「玄奘の凄さ」 玄奘は、西暦602年に生まれ、27歳のときに当時天竺と呼ばれていた北インドへの長い旅に出立します。仏教の経典を貰い受ける... 続きをみる
第十回 面白い本を見つけた その本の名は「宇宙を貫く幸せの法則」 著者の名前は小林正観さん
続き、 声に出して言う「ありがとう」は二倍の効果 小林正観 「たとえば夫が寝静まつたところで、耳元で「あなたが大好きよ、よく働いてくださってありがとう」とずつと言っていくと、その言葉は寝ている夫の身体の中の... 続きをみる
第九回 面白い本を見つけた その本の名は「宇宙を貫く幸せの法則」 著者の名前は小林正観さん
先日、県の図書館に足を運び、この正観さんの本を探した。全部で十冊くらいの本が見つかった。その内、貸出中のものもあり、その日はとりあえず5冊の本を借りてきた。どれも文字が大きく、おまけに本の大きさも軽く寝転がって読めるくらいなのでとてもありがたかった。そのうち僕が特に面白く思ったところをここに書き... 続きをみる
第八回 面白い本を見つけた その本の名は「もうひとつの幸せ論」 著者の名前は小林正観さん
「えっ、私なんか無理ですよ・・・・・・」と断らずに「頼まれごと」をすると、ラッキ-の神様がやつてくる 小林正観 「車椅子の書家」、伊藤進さんとはじめてお会いしたのは、今から10年ほど前の事でしたた。彼は二十歳の時に首の骨を折り、それ以降、車椅子の生活を余儀なくされていました。ほうたいで... 続きをみる