第二十四回 「正観さんの最後の著書 淡々と生きる」より 「一切衆生悉皆有仏性」 小林正観 著作

「正観さんの言葉」
 私たちの魂というのは生まれながらにして水晶玉、きれいなクリスタルです。透明で誰が見てもきれいなのです。ところが、一方に教育というものがある。小、中、高校、大学があって、会社があって、家庭があって、という具合に社会全体が、競うこと、比べる事、争うことを教え込みます。競争に勝ち抜いたら偉いという価値観で、世の中は一色に染まっています。子育てでも、子供を褒めることは順位を褒めることだと勘違いしている親が沢山いる。その勘違いの子育ての結果として、クリスタルの玉がすべて泥汚れのかたまりになつている。その泥汚れの泥が、競うこと、比べる事、争うことです。この泥汚れをすっきり流すことができたら、人間の魂はものすごくきれいなクリスタルに戻すことができます。
 阪神大震災で、警察や消防など救助隊の車が入れず、やっと駆けつけたときには、瓦礫の中から助けられそうな人は殆ど助けられていたそうです。実は救助隊の前にそれをやったのは、茶髪の兄ちゃん姉ちゃんたちだつた。ゴムぞうりで出てきた茶髪の兄ちゃん姉ちゃんたちが釘を踏み抜いて自分の足が血だらけになっているのに、手で引っ張り出せる人達を大勢助け出した。救助隊が入って来た時には、既に多くが助け出されていた。この話は現場を見ていた人たちの語り草になつた。感激したという話が、あちこちで聞かれました。
 実はもうひとつ、一番最初に飛び出してきて、瓦礫の中の人を助け出したのは、暴力団の人達、やくざと言われる人たちだったという話もあります。阪神には大きな組織がある、その人達です。これはマスコミでも公表しないし、警察も公表しない。一番早く食料を調達して提供し、組織だって人を集め、人助けしたのは、その人達だった。
 やくざといわれる人たちや、茶髪の兄ちゃん姉ちゃんたちに共通してしていることは何かというと、ある面、日本の学校教育の中で、競うこと比べる事、争うことことに耐えきれなくなつた人達が多いことです。しかし、この人たちは、やさしさを沢山持っていて、その優しさゆえに、学校の成績は上がらななかったのかもしれない。バカだ、クズだと言われてなかったのかもしれない、結局そっちに行かざるをえなかったといえなくもない。しかし、やさしさというものについては、この人たちの方が沢山もっているのかもしれません。
 本当はそういうやさしさとか温かさ、人間性のようなものを評価する世の中のほうがいいのです。そういうものが今の社会では評価されないので、だんだん魂が濁って来る。競うこと、比べる事、争うことで、魂は泥まみれなつてしまっている。
 ところが、ある日突然、泥が払われるということがあります。
 ある状況で、ある日突然、周りの人間がこんなにすばらしい人だったのか、周りの花がこんなに美しいものだつたのか、と気づく瞬間がある。それは、泥が一瞬にして払い落とされた瞬間です。そして競うこと、比べること、争うこと、それを全部やめてしまう。ただ自分が必要とされるところでニコニコと生きていくようになる。順位が何番目か、などは関係なくなるのです。
 こういうことがわかれば、子育てでも、子供に対する態度は、その時からすべて変つてきます。母親がそれをわかって子供に接すれば、本当にきれいな魂の子供に変わるかもしれません。お花ってこんなにきれいだつたの、海ってこんなにきれいだったの、空ってこんなにきれいなの、人間ってこんなに素晴らしいの、そういうかもしれません。その瞬間、仏性に目覚めたといえます。
 それを二千五百年前の釈迦は知っていた。「一切衆生悉有仏性」とは、人間の、花の、空の、海の、この世のあらゆるものに美しさが潜んでいることを教え示しています。人間はある日突然、その仏性に目覚め、その美しさに気がつく瞬間があるのです。これが魂の向上です。

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