第二十一回 「正観さんの最後の著書 淡々と生きる」より 「病を得てわかったことその①」 小林正観 著作

正岡子規画像
 
正観さんの話その①

 私が発病したのは2009年の十月。段々悪化して2010年の11月から、人工透析を受けることになりました。一日おきに病院に行って、、日本中を回りながら人工透析を受ける。旅する人工透析者です。いつ死んでもかまわないと思っていますが、体をいといながら何もしないでいると駄目なのです。原稿を書く、講演をする。これが生きている証です。お医者さんは講演はだめ、原稿執筆もだめと言います。仕事をすると血圧が上がるから安静にしていなさいと言いますが、安静にしてなにもしないよりは、頼まれたことをこなしながら死んだほうがいいと、そういう心境になってきています。
 いつ死ぬかは、生まれる前の魂が決めたシナリオなので、それはおまかせ状態です。もし神様が、もうちょっと生かして私に講演させたり、本を作らせたりしょうと思うなら、そうなるだろうし、もういいよと仰るのであれば、それで一件落着です。それはそれでいい。どっちでもいい。そういうわけで人工透析するくらいなら死んでしまうほうがいいと医師たちに公然と言っていた頃、私のところに届いた言葉がありました。正岡子規の言葉です。「悟りとは、平気で死ぬことではなく、平気で生きることである」というものでした。
 いつ死んでもいい、いつでも死ねる、生きることに執着はない、とはある程度勉強したした人にとってはそういう気持ちになれるものです。私もその程度の事は言っていました。正岡子規の言葉は、そういうタイミングで届けられてきたのです。
「悟りとは、平気で死ぬことではなく、平気で生きることである」
 つべこべ言わないで平然と生きる事。淡々と生きる事。それが悟りである。この一言にはすごみがあります。それがドーンと響きました。
 正岡子規は単に身体が悪かったとか、数値が悪かったとかとかいうレベルではありません。脊椎カリエスという、肺結核の結核菌が背中から脊髄に入り込んで骨に穴を開け、骨から膿が染み出て来る・・・・・・すさまじい激痛をともなう病状だったのです。腰からしたがまったく動かせなくなって立ち上がることも出来ず、ずっと這うような生活をしていました。朝になると痛みで目が覚め、毎日何とかしてくれと叫ぶありさまです。大声で泣く、痛くて痛くて、助けてくれと絶叫する。そんな猛烈な痛みに責めさいなまれながら、絞り出すようにして出てきた言葉です。だから、この一言はすごい。
 こんな文章があります。

 「床に寝て、身動きの出来る間は、敢えて病気を辛しとも思わず、平気で寝転んで居ったが、この頃のように、身動きが出来なくなつては、精神の煩悶を起して、殆ど毎日気違いのやうに苦しみをする。この苦しみを受けまいと思ふて、色々に工夫して、あるいは動かぬ身体を無理に動かしてみる。いよいよ煩悶する。頭がムシャクシャとなる。もはやたまらんので、こらへにこらへた袋の緒は切れて、遂に破裂する。もうかうなると駄目である。絶叫。号泣。益々絶叫する。益々号泣する。その苦みその痛み何とも形容することが出来ない。寧ろ真の狂人となってしまえば楽であろうと思ふけれどそれも出来ぬ。もし死ぬることが出来ればそれは何よりも望むところである。しかし死ぬる事も出来ねば殺してくれるものもない。一日の苦しみは夜に入って減じ僅かに眠気さしたる時にその日の苦痛が終わると共にはや翌朝寝起きの苦痛が思ひやられる。寝起き程苦しい時はないのである。誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか。誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか  (正岡子規、病牀六尺)より


子規は22歳で喀血し肺結核におかされたことを知り,35歳で急逝した。

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