第十二回 三蔵法師の凄さ 一回目 最後の著書 「淡々と生きる」 小林正観さん

  小林正観の著書である「淡々と生きる」を読みました。僕の知らない三蔵法師のことが書かれていました。とても感慨深い内容でしたので皆さんもどうぞお読みください。
「玄奘の凄さ」



 玄奘は、西暦602年に生まれ、27歳のときに当時天竺と呼ばれていた北インドへの長い旅に出立します。仏教の経典を貰い受けることが目的でした。天竺で「論蔵.律蔵.経蔵」の三つの教法すべてを修めることができたので、唐の第二皇帝から「三蔵法師」という尊称を与えられました。
唐の都を出るにあたっては、国王の許可を得る規則があります。しかし、許可は得られませんでした。玄奘は国禁を犯し、命がけで出国します。往復一万五千キロのタクラマカン砂漠を歩いて横断し、再び帰って来るという壮大な計画です。のちに三蔵は「大唐西域記という紀行文を書きます。この西域記をベースにしてのちに西遊記が作られました。玄奘は三十ヶ国を旅するのですが必ず「滞在して、仏法を説いてくれ」と要請され、留まって話することになります。その土地土地の国王に請われて二、三か月ずつ滞在し、結果往復に17年もかかってしまいます。
第一日目、壮大なる気迫で出発しましたが、都を出てしばらくの所で、砂漠の中にぼろ布が見えます。周囲は荒涼たる砂漠です。そのぼろ布を横目に見ながら行くと、ぼろ布が動いた。「どうしたのか?」と思って見ると、ぼろ布の中から老婆が顔を出しました。「こんなところに人がいる」と驚く玄奘に、老婆が語りかけます。「自分の身体は業病に侵されている」と。昔で云う「ライ病」、今の「ハンセン氏病」です。この頃はライ病の患者はとても怖がられていたのです。その老婆がこう言います。
「この膿が出ている所に、口を付けて吸い出してもらうとこの病気が治るというので、家族にそれを頼んだら「とんでもないやつだ」と怒られて、このとおり打ち捨てられてしまった。自分としては、もうこれで死ぬしかないと諦めていたが、あなたが通りかかった。あなたに口を付て吸い出してもらいたい」
玄奘は、身の丈七尺、体重が百十キロもある偉丈夫です。これから一万五千キロという旅の一歩を踏み出したばかりで、いきなり見知らぬ老婆が、膿を吸い出してくれと言われれば、ためらうのが普通です。これから有難いお経を天竺に取りに行こうと大望を抱いて、国禁を犯し、命をかけて長安の都を出た所ですから、どんなに心の勉強をしていても、断って当然です。

玄奘は、何秒か考えて、「わかりました」と言います。そういって、老婆の腕を取って、自分の口をつけた。有難いお経を取りに、命をかけて行くと決めたのですが、目の前に死にそうな老婆がいた。それに対して、誰かが見ているわけでもないのに、「わかりました」と口を付けるというようなことは、誰にも出来るものではありません。私は、その状況を何十回も想像して、自分にはできないだろうと思いました。「これから有難いお経を取りに行くので、残念だけど、今はそんなことに関わっていられない。申し訳ないけど・・・・・・」と言ってしまうと思います。ところが玄奘は「わかりました」と口を付けた。

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