未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百三回 絶対界 巻の三 絶対界 第三講 自然と自由の関係について 慈音のみならば最 早何等の教へをなすの要もあらざるなり。唯諸子を導かんがための役目を架せられたるが故に、彼は両道に立ちて行の苦みをなし居るにすぎざるなり。此書を読むもの慈音に対しても深く感謝せざるべからず テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています

絶対界 第三講 自然と自由の関係について 
            テツシン貴尊講義


第三講


 泰岳は自然を尊び自然を認知なし居るが故に、斯る事を伝ふるに対しても、決して偽はりとは思はざるなり。さればこそ彼は慈音の耳をふさぎたるなり。即ち慈音は大自然と小自然の中間に立ちて行じ居るによって、初心者の行とは大に異なる事を知りて、慈音の行に妨害となることを知るによって、斯く取り計らひたるなり。 こだま会の会員は初心者にしてあるが故に、斯る法を伝へて其によって大自然を知らしめんとして、斯る簡単なる法を伝へて其によって霊の偉大なるを知らしめんと計りたる迄なり。智者には智者に対して、学者には学者に対して、其々の分度に応じて導きをなすにあらざれば通ぜず。 人類の程度に応じて、適宜の方法を以てするにあらざれば、案内することは難し。 宗教者の教へにも斯る底の方法が設けられありて、教化なし居るにてはあらざるか。 所謂人見て法を説けの譬喩あるによっても知らるるならん。 方便とは即ち其人々の程度に応ずる実なるべし。余事は兎に角神と我と共にありとして行ずることの大切なることは斯くの如き関係あることに留意せよ。神と共に一路を歩まば淋しくはあらざるならん。仏書の中に「無常忽ち到る時は国王大臣妻子珍宝助くるなし。 唯一人黄泉に赴くのみなり」と云ふ言葉あるを見る。唯一人黄泉に行く底の行をなして何の益かあらん。一人行くが故に迷ふなり。 我等に云はしむれば行じて、神と共に行けよと教わるものなり。 淋しく一人歩み居りては迷ふは当然なり。神と共に行きて迷はぬ処に到るべき修行なしては如何 ? 是は肉体滅後の事にて語るも詮なし。されば肉体を有する間も神仏と共に生活なし居るならば、肉体滅後の憂ひはなかるべし。 宗教くさき教へなれど敢て宗教を意とする勿れ。
 今も慈音は隣家の婦女に対して語り居るを聞くに、若き頃は決して生死など考ふるものにあらず。年老ゆるに従ひて生死を感ずるに至るは、即ち稔りが得られてはじめて生死を知るなりと教へ居るを聞きたり。恰も米の苗は如何なる実を結ぶかは知らざるに等し。老ゆると云ふは稔りに近づきたるが故なり。 若き頃は、寺参詣などなすものにあらず。 老ゆるに及んではじめて寺門をくぐるにてはあらざるか。 斯る修行を小自然にまかせ居らば臨終に至って迷ふは当然なり。早く大自然に立ち返りて迷はざる自覚を求めては如何 ?
 神我一体の生活を営む人は、即ち大自然をわきまへたる人にして、是を知らずなるがままなさるるがままに生活なし居る人は、小自然に順ずるが故に事にあたって狼狽するなり。 狼狽すれば苦みを伴ふ。是自然を曲解して世渡りなすが故に、ここに自由は得られずして不自由のなやみとなるなり。大自然と小自然の関係は斯る小さき処にも、発見することを得るなり。大自然に従ふとは即ち神我一体の歩みをなすにあらざれば理解すること難し。諸子は小自然にのみ囚はれて、彼是心をはたらかせて自然不自然を観察なし居るが故に、大自然に順ずることをなし得ざるなり。今も語りし慈音は大自然と小自然の間にありて行じ居ると語りしに対して諸子は不審するならん。慈音にして大自然を知り、神と共に生活なし居るならば、 小自然の理は既に明らめ居るにてはあらざるかとの疑問を起すならん。もとより慈音は大自然を知るが故に、神と一体化なしたる歩みをなし居ることは云ふ迄もなし。さればこそ教主は慈音に対して導きをなし居るにて我等も共に彼に至り居るなり。 唯我等が諸子に導きをなすに対して、その中介者たる役目を慈音が架せられあるによって、ここに小自然と大自然の中間にさしはさまれて彼は行じ居るなり。慈音のみならば最
早何等の教へをなすの要もあらざるなり。唯諸子を導かんがための役目を架せられたるが故に、彼は両道に立ちて行の苦みをなし居るにすぎざるなり。此書を読むもの慈音に対しても深く感謝せざるべからず。

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