未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百二回 絶対界 巻の三 絶対界 第三講 自然と自由の関係について 円海は事実に於て泰岳の行ひを見て驚嘆する他なかりしなり。 我かく語るとも諸子は事実に於て見聞せざる故に、到底この言葉をすら信ずること難かるべし。 ものの理をきはむればかかる事のなし得るは当然にして、決して不思議するに足らざるなり。其は理を知らざるが故なり テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 





絶対界 第三講 自然と自由の関係について 
            テツシン貴尊講義


第三講


 諸子は恰も是等を具備する僧に等し。 名づけて是を仏法僧の三宝と見るも可ならん。仏は神なり。自然は法なり。是を用ゆるは僧に相当する諸子なるべし。故に空なる神を己にとり入れて我ものとなし、然してそのものと我と一体化して世渡りし居らば、 決して誤謬を犯すものにあらず。 所謂神我一体の生活する事によつて、ここにはじめて真の自由は得らるるなり。 諸子は神を念ずるは外を拝み、然して生活は我のためなりと考ふるが故に、一体化することを得ずして、常に二つの道を交々歩み居る為、如何に専心万苦すとも望は叶はずして、空しき世渡りをなし居ることに早く覚醒めよ。
 諸子の諺に二兎を追ふものは一兎を得ずと云ふ教へのあるならん。是等の言葉は自然を教へ居るなり。 諸子は二兎を追ふが故に一兎をも得られず。 手を空しくして帰るの余義なきに至る。 是自然に順ぜざるが故なり。 泰岳が一腕の食を神と共に食するが故に、他人の半分喰ひて足ると教へ居るにはあらざるか。 泰岳は無学文盲の者にて、世間よりは愚物と嘲らるるに不拘、天界を明らめしも、神と一体化なしたる生活をなしたる結果に他ならず。もの云はぬ錯杖を招けば彼に来る。 諸子は斯る事のあるべき理なし。若しありとするならば何か其に相当する種子仕掛けのあるならんと思ふならん。然るに彼の師は徒弟に教へて、彼は法力を用い居るにあらず。又是には何等の種子仕掛けもあらざるなりと読めたりと云ふにてはあらざるか。 諸子にはかかる事のありと語るも到底信ずることあたはざるならん。たまたま信ずる人ありとせんか、其人は泰岳は神業を用いたるか、或は泰岳は、 神なるべしとのみ語るの他なかるべし。
 されど円海は事実に於て泰岳の行ひを見て驚嘆する他なかりしなり。 我かく語るとも諸子は事実に於て見聞せざる故に、到底この言葉をすら信ずること難かるべし。 ものの理をきはむればかかる事のなし得るは当然にして、決して不思議するに足らざるなり。其は理を知らざるが故なり。
 諸子の世界に不思議なる手品師が、種子仕掛ある方法によって諸子の眼をくらますにすら、その法を知らざる間は不思議なりとして感嘆する患者は多し。法を教へられてはじめて合点する如きは、諸子の知慧のはたらきが斯くもにぶき故なり。泰岳が円をかきて線をひき其を枕にあてて眠ぬる時は、己が欲する知人に対面することを得との呪(じゅ)を教へたり。我等は面白き教へなりと思へど諸子には其理を知らざるが故に、唯不思議として聞きたるのみならん。

×

非ログインユーザーとして返信する