未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百一回 絶対界 巻の三 絶対界 第三講 自然と自由の関係について 泰岳は一椀の食をとるに対しても己のみ喰ふにあらず、神と共に食するなりと聞かされしにてはあらざるか。諸子は唯訳もなく喰ふによつてその食は死したる食となるなり。 神と共に食するが故に、その食は活力となるなり。故に真の自由は得らるるなり テツシン貴尊講義

絶対界 第三講 自然と自由の関係について 
            テツシン貴尊講義

第三講
自然と自由の関係について


 諸子は神を知りて神と共に生活する事あたはざるは、即ち自然の道理を体得なし居らざるが故なり。 神の存在の有無を論ずることを暫く止めよ。 兎に角自然と云ふ事に対して、自然は神なりとの思ひを抱きて日々の生活をこの自然に任せてつとめする事に努力せば、その姿こそ即ち神と共に生活し居ると見なして可ならん。 又其が神の作られたる自然に従ふと思ふもよし。すべてを自然に任すと云ふは一切悉くを、神に委ねたりと思ひて己が心を兎や角と迷はすることなく、唯なるがままなさるるがままに任せて、己が任務のみ粗略にせず一路邁進することを、神と共に生活なし居ると考ふるも可なり。諸子は神は神、生活は生活として、日々を過し居るが故に、自由のなわめに縛ばられて苦み悶え居るなり。 従来より語り来りたる如く、すべてを神に委せよと教へしは是なり。 神を知らずとも神ありとして其に己の運命を任す底の心がけあらば、其にて神との生活はなし得らるるならんとの思ひを貯へよ。 泰岳が語りし如くすべてを捨てて神に従へよと語りしも是なり。 泰岳は一椀の食をとるに対しても己のみ喰ふにあらず、神と共に食するなりと聞かされしにてはあらざるか。諸子は唯訳もなく喰ふによつてその食は死したる食となるなり。 神と共に食するが故に、その食は活力となるなり。故に真の自由は得らるるなり。自然に順ずるが故に初めて自由は得られ、何処に到るも心のままになりて不自由を感ずることあらざるなり。 諸子は自由を得んとして、却て自然より遠ざかり不自由の網にかかりて悶え苦む。心せざるべからず。
 諸子は我儘気儘より意の如くならざれば、不自由なるものとして世を呪ふこと多からん。もし諸子にして神と一体化して生活し居るならば、斯る誤ちたる考へは起すものにあらず。 我等は諸子に神は自然なりと思へよと教へしは此事あるによつてなり。 例えば人と人と互に約を結びて作りたる法則に対してすら、神は其法則を曲げ給はずと語りしは、諸子の知るところならん。人間同志の定めたる法律と雖も、その法律は神としても曲げ給はざるを見ても、法則と云ふものの如何に大切なるかを覚らざるべからず。人と我との間に於て約を結び是を違ふ如きは、法律を守らざるが故なり。人には人の法律あり。 神には神の法律あり。人の法律と神の法律とには隔りありと雖も、法律の大切なるは此理に徴しても明らかならん。 諸子は他人と約束なしてをきながら其を守らず、違約して後に一言の言葉にて詫びる如きは是自然の道理を知らざるが故なり。 九流界の伝説に婦人が男装して男界を犯したる例話を、諸子は記憶し居るならん。神はその男装せる婦人の法律にそむきたるに対して、法律を守らせんがために、女子を男子に化せしめたりと云ふにてはあらざるか。是等は神にしてなし得る事なれど、法律の重きを覆すことをなさざる神の思し召しこそ尊しとは考へざるや。もしその婦人がいたづら事の為にかかる事をなしたならば、神は是を救ひ給はざりしならん。 彼の婦人は夫との約束を守りたる事を諒として、神は救ひ給ひしなり。 法律(起きて)と云ふはかくも尊し。然るに諸子は法律を破りて平然たる如きは、是神と一体化したる生活を営み居らざるが故なり。 神我一体の生活をなし居るものならば、自然の法律は彼是考へ居らずとも神はよく知る故に、 我如何なる行ひをなすとも神は咎むるものにあらず。 されど神とはなれて生活なし居らば、神は過誤を咎め給ふが故にここに至って不自由を感ずるなり。我儘気儘の行ひをなす人は神を離れ居るが故に不自由を感ず。されど神と一体化して暮し居らば、かかるわづらはしき苦みは、 清除せられて真の自由は得らるるなり。自然は法律なり。法律なくして自然は成りたつものにあらず。神は自然なり。 自然なるが故に法律を法として作り給ひしなり。

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