未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百十六回 絶対界 巻の三 絶対界 第六講 心魂の存在を発見するには、言葉にては到底云ひ現はし難きが故に、斯くもむづかしき説明をなして、 諸子の自得見性を促がす材料として供し居る迄にて、 諸子の肉体の中に心が何処、魂は何処と定められたるところあるならば、一言にして教ゆることを得れども、魂の存在は、全身悉くに宿り居るが故に、何処をそれと定むること難きが故なり テツシン貴尊講義

ヒロさん転記したものをここに掲載しています

絶対界
第六講
心と霊気の交はりの関係について
      テツシン貴尊講義



絶対界
第六講
心と霊気の交はりの関係について
      テツシン貴尊講義


 大地の恩恵を忘却して徒らに空の高きを望み居るが故に、折られ倒さるる如き過失を犯すも、是一方的にして空実一体ならざるが故なり。 魂あるが故に心は延ばされ行くは、恰も根に依て葉、分布すの比喩となるなり。教主が前巻にて教へられたる如く、頭に囚はれ居りては望は達し難し。又腹にのみ囚はれ居ても同様の関係となる故に、頭腹一体ならざるべからずと説かれたるにてはあらざるか。儲子は頭にのみ任せ、腹を粗末になし居るは恰も地球に肉体をおきながら、空だのみなし居るに等しとは考へざるや。常に語り居る如く魂とは根なりと云ふに対して、 諸子は今尚さとることを得ずして、徒らに空間にのみ任せ居る傾きあり。 空間に思ひをはするは即ち空たのみなり。 空に伸びんとせば、先づ根に相当する魂を育つるにあらざれば、望は達し難し。仏教にては脚下を省顧せよと教へ、儒教にては我身を省みよと教へ居るにてはあらざるか。我にして我を知らずと云ふことは、即ち己に有する魂の存在を知らざることを意味す。諸子のはたらかせ居る心は、心より出づる気のうごかし方にすぎざるが故に、己の心すら知らざるなり。我の語る説は皮肉の如く感じらるれど、心魂の存在を発見するには、言葉にては到底云ひ現はし難きが故に、斯くもむづかしき説明をなして、 諸子の自得見性を促がす材料として供し居る迄にて、 諸子の肉体の中に心が何処、魂は何処と定められたるところあるならば、一言にして教ゆることを得れども、魂の存在は、全身悉くに宿り居るが故に、何処をそれと定むること難きが故なり。 生理学上より見る時は頭に心ありと語り居れど、それは筋肉関係より唯頭を主としての説明に他ならず。故に教主は頭腹一体の法を、諸子に教へ給ひしなり。頭腹一体とは即ち実空一体を語られたるに他ならず。諸子は日々心をはたらかせ、時によりては魂をもはたらかせ居るに不拘、その存在を知ることを得ざるは何故ぞとの念を深く追究して、確かなるものを発見することに努力せよ。心気は肉体変化によつて刻々変化なし居るに対して、魂の存在は何処にありやを知ること難きが故に、日常心のみにたよるの他あらざるなり。 是等の事柄に対しては明日二十四日 (昭和二十五年六月、 こだま会) 円海が我に代りて語ることもあらん。よって彼の教へを受けよ。


今日現在ヒロさんの絶対界の転記はここで終わっています。残り50頁が未完の状態で残されていますが彼の再開を期待して私はじつくりと待っています。本当にご苦労様でした。転記の誤はなく精確無比なものでした。ご苦労様でした。本当にありがとうございました。厚く御礼申し上げます
                    yu-

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