未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百十五回 絶対界 巻の三 絶対界 第六講 初対面の人に対し形を改め威儀をただすは、心をおしこめて魂を表面化なしたる姿に他ならず。 されどその魂は唯魂の余韻にすぎざるなり。 親しみを重ねるに従ひて心が表面化して、魂がかくるると見なさば魂と心との区別は察せられる筈なり テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています

絶対界
第六講
心と霊気の交はりの関係について
      テツシン貴尊講義



 此時慈音曰く、我等はあさはかにして智慧なし。心と魂の区別の理は朧気ながら解することを得たれど、事実日々の生活に於て何等か他に、適当なる教へにあずかりたしと。 我、是に答ふべし。 諸子ははじめて人に対面する時形を改め威儀をただす。 是即ち魂のあらはれなり。然して次第に交はりを結ひ居らば、魂は遠かりて心のみが交はりをなすにてはあらざるか。 はじめて会ひし人と、交はりを深くせし人との相違は、即ち魂と心の相違なりと合点せよ。然して拡大して考へを進めなば、自づと魂の在所は判明せん。 初対面の人に対し形を改め威儀をただすは、心をおしこめて魂を表面化なしたる姿に他ならず。 されどその魂は唯魂の余韻にすぎざるなり。 親しみを重ねるに従ひて心が表面化して、魂がかくるると見なさば魂と心との区別は察せられる筈なり。 されど修行したるものと修行せざる者との相違は、魂の磨かれたる者と磨かれざるものとの隔りによって、異なることは云ふ迄もなし。
 魂の磨かれたる人は常に魂を忘れず。是を他に転ぜしむることなく、たとひ初対面の人或は交はり深き人の区別に不拘、常に魂を以て交はりをなし、然して心を自由に支配して彼を遇し居るにすぎざるなり。さればこそ他人が魂の磨かれたる人を惑はさんとなすとも、決して犯さるるものにあらず。 何となれば魂は磨かれて是非の区別を、忽ち看破するはたらきを備へ居るによつてなり。欺かるるも可なりと思へば、或は欺かれ、又欺かれじと思はば、是を退くる自由は魂を措いて他にはあらざるが故なり。慈音は他人の語る言葉を聞きて彼は虚偽を語り居ると知りても、其非を咎むることをなさざれど、其は空と実との相違を知るによつて咎めざるに他ならず。 されど慈音の魂は彼の心に喰ひ入りて、その非をせめ居ることは云ふ迄もなし。 こだま会に来るもの慈音に同化し行くも、みな魂のはたらきの力に他ならず。 我等の教へを取り次ぐ任務をなし居れど、 彼の魂がはたらかずば通ずるものにあらざることを、諸子は考慮のうちに取り入れをくも、敢て空しきことにはあらざるべし。 兎に角、心魂の中に、気と云ふ一種のへだたりが、種々様々のはたらきをなすによって或は障碍ともなり、或は利益ともなることに深く意を用いざるべからず。諸子は病気する勿れ。常に不病気の姿となり健康なる気を具へ居らば其にて可なり。 心魂一体の人となりて気を病むことなければ、呪祈禱の術をなさずとも又受けずとも可ならん。されど修養修行の力なき人に対しては、或はその法を用ゆる要もあるならん。 早く斯る法を用いずとも明朗なる心に、或は魂によつて斯るものの必要なき底に迄、至らしめよと教ゆるものなり。
 ここに聊か注意することあり。其は他ならず。 諸子は、心気と霊気との区別を、誤解し居ること多からんと思ふなり。霊気は四六時中間断なく通じ居る気体にして、心気は空気の如く雲を宿し雨を降らす如きものにて、時には澄みきりたる青空の如くなることもあり、又雲を深く重ねる如き場合もあることに心せざるべからず。是霊気と心気の相違なるが故なり。されば心気常に穏かとならば、霊気は是に順じて一層明朗に化せしむる力を有するものと思はば、気の和しかたに対してさとる所あるならん。 心気濁るとも霊気は通ず。されど是を強いて晴さんとはなさざるなり。心気濁りて不善を企つる時、霊気は唯それに任せて不善にも組し、又善にも組す。此事柄の詳細は前巻によつて学ばれ度し。
 我等よく聞くところなるが諸子は子供に対しても汝大きくならば人の頭たれ、必らず下につくこと勿れとさとし居るにてはあらざるか。これは何を物語るや。足は地上にありて頭は空間にそびゆ。然して尚も高く々々ならんと考ふるは頭なるべし。 是空間にのみ囚はれ居るにはあらざるか。 諸子は地球を足かかりにして天界に上らんとする考へより、人の頭たれと教へ居るか、但しは他に意味ありての事か。兎に角他人よりも聊かにても高からんと望むは空の方向なるべし。 又正直の頭に神宿るとすら語り居るをよく耳にす。神は頭にのみ宿り居りて、他にはなきものかに対しての道理は別として、頭は尊く他は卑しとの心なるか、或は他人より勝れたるものとなりて神の如く敬はれんとする心なるか。是等を一括して考ふる時空を尊び、 実を卑しむ傾向ありと思ふなり。然りとせば諸子は常に人の頭たらんとして高きを望み、空間へ空間へとあてもなく上昇の道を辿り居るならん。さればこそ暴風に会ひて倒るるなり。暴風に会ひて或は折られ或は倒さるる如きは是心のみのはたらきにて、 魂の根を忘れ居るが故なり。我等は実も空なり。空も実なりと語り居るは即ち心魂一体の行ならでは得られじとの道理を語り居るなり。

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