未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百十四回 絶対界 巻の三 絶対界 第六講 日本の天皇宗教とも云ふべきものを例にとりて語らん。日月を霊とし、魂を天皇とし、心を文武百官と見なし、民を肉体として観察せばすべては察せられるならん。然してその四つのものをつなぐはすべて霊気なるべし。是に依てその区別を知ることを得るならんと思ふが如何 ! テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています

絶対界
第六講
心と霊気の交はりの関係について
      テツシン貴尊講義



 医者の認めたる処方箋を護符と信じて服用して、病気を治癒したる老婆すらあることの例話を、諸子は記憶し居るならん。斯ることを科学的より考ふれば、実に滑稽の如く感じらるれど事実老婆にとりては真剣に考へてこれを信じた結果、暗示となりて病気の雲は払はれたるに他ならざるなり。老婆にとりては薬石よりも医者の尊きを、神の如く信じたるが故なり。 心の気を払はば、心魂を一体化す。故に肉体の病ひは左のみ苦痛にあらざるが故に、一時は治癒したる如く感じられたるにて是を暫くすておかば、又もや再発の悩みある事は云ふ迄もなし。たとえば甲の医者は信用がつきて厚きに反し、乙の医者が信用うすければ同じ薬を用いても、甲の医者の利目は顕著となり、乙の医者の薬は効果うすしと感ずるが故に、同じ薬と雖も利目に於て相違すらあることの例はしばしば見聞する処なり。故に諸子は是等の点よりよくよく修行修養の法を考へ見よ。信ずる力の如何に大なるかを知ることを得ん。たとえ愚者なりと云はるるとも、信じて早く救はれたる人は、却て賢者の部に算へらるるならん。信ぜずして長く苦まば、其だけ長き時間を悩むによりて、疑ふものは却て愚者となることの理より、法を研究せば従つて、気と云ふものに対しての重要なることに心づくならん。 前書にも語り居る如く気に掛ることは早く清除せよと語りしも、みなこの理に他ならずと知るべし。
 心より発する気体と、魂より発する気体と合したる時、この両者の気のはたらきが、摩擦を生じてここに雲をおこす。 故にこの雲を払へば、心魂一体となることの理は察せられるならん。 心の悩み強ければ強き程、雲は深くなり行くによって、魂の光をさへぎる故に、病気となるなり。 肉体は如何に大切になし居りても、種々様々の食物を摂取して生活なさしめ居るによつて、病身となるは是非もなきことなり。此理を知るが故に、行者は、不自然の食を摂取せず。自然食によって肉体を育て居ることの理も亦察せられるならん。
 信ずると云ふも気なり。疑ふと云ふも亦気なり。気のはたらきは霊より生ず。心になやまするも気の力なり。此気を払ふ力は魂ならざるべからず。今慈音は我に向ひて、心魂の区別を今少し詳細に語られんことを望むとの要求に、答へて説明せん。手近き所に例あり。其は日本の天皇宗教とも云ふべきものを例にとりて語らん。日月を霊とし、魂を天皇とし、心を文武百官と見なし、民を肉体として観察せばすべては察せられるならん。然してその四つのものをつなぐはすべて霊気なるべし。是に依てその区別を知ることを得るならんと思ふが如何!日本には神ながらの道と称して多くの文献には現はされ居らざれど、事実に於て斯くも分り易き教へを示され居ることに意を用いよ。 天皇と云ふ大切なる魂、失はるれば心のみ残りて、民の安かるべき道理なきことも推して察することを得るならん。 所謂人間性をすてて動物性に化せられるが故に、日月の光は暗し。斯る簡単明瞭なる教へあるに不拘、日本人は他国の宗教を尊びて、却て自己を亡ぼし行く愚をなすことの如何に無智なるかに、 我等は慨嘆するものなり。其は数多の文献の具はりあらざるが故に、却て燈台下暗しの関係となり居ることは是非もなきことなり。 されど是等に対して早くめざめて、然して其を基礎として多くの文書をあらはしては如何!
 我、斯く語る時慈音は欣情に向ひて、現今の憲法に天皇を象徴として残しあるはせめての幸福なりと語り居るを聞く。されど是を我等の眼より見る時は、政治をあづかる大臣が、己の権威を恣にせんとのたくらみに残したる迄にて、事実に於て天皇を影の人として止めあるにすぎざるなり。 一度誤ちてロシアの手におつるならば忽ち天皇の影は失はるることもあるならん。其後の日本は如何に、実に危きことならずや。 よし其がアメリカの管轄に置るるともこれ又、日本民族は表面上は独立国の如く見ゆれど、事実は彼等の脚下にひれふすの他なかるべし。 かかる事は即ち魂の失はれたる動物性の政治によって、世を建設せんとするが如き愚を敢てなし居るによって結果に於ては、日本再建にあらずして益々退歩の姿に変ぜらるるは、人間性を忘れて動物性にて終るの余義なき故なり。斯る事にて日本再建は思ひもよらざるべし。否日本のみにあらず、平和の世界は前途遼遠なることに心せざるべからず。余事は兎に角魂と心の関係は是等の例より推理せばうなずくところあらん。
 魂を求むるは前途遼遠の如く諸子は感ずるならん。心も魂もすべては汝の肉体にあり。 めざむれば忽ち魂の光明は輝く。 心と魂は紙一枚のへだたりなり。悪人が前非を悔いて忽ち善人に化せられるも、動物性の心が滅却して魂の本然に立ちかへる故なり。諸子は魂と心とを日々交々はたらかせ居るが故に、何れが魂か、何れが心かの区別すら判明せざるため迷ひ居るにすぎず。悪人などは魂をおしこめて、心のみはたらかせ居るが故に、我儘気儘の行為をなし居れど、 一度めざむれば是等をすてて本然に立ちかへるが故に、恰も一廻転なしたる如く思はるる迄なり。人の性は善なりと云ふは、即ち人の性は魂なりとの言葉に他ならず。故に自問自答の法によつて是非の区別を日々続け居らば、是と教ゆるも非と答ふるも是を魂にまかせて、心はこれに順じ居らば、其は即ち大自然に順ずる方法に合ふなりと知らば可ならん。如何にせば魂を発見することを得るやなど苦まずとも魂は汝にあるなり。汝をすてて他方に飛散するものにあらず。心と魂が分離せられ居る如く見ゆるのみにして、実は一体となるべき性質のものにて不可分関係におかれたるものにあらねば、その心してすべてにあたり居らば、心は自づから浄化せられて、魂のはたらきに順ずることを得るなり。 彼是迷ひて種々様々の方法を学ぶにも及ぶまじ。一度めざむれば実に訳もなきことにて、何故斯ること早く気附かざりしかと、己が愚さを己に嗤う如き底のものなり。或禅僧の曰く、我幾年か坐禅工夫して彼是苦きわざをなして漸くめざむれば、我は我なりしと、大笑して山を下りたりと云ふ、話を聞きたり。実に然り。然あるなり。我は我なり。 我は彼にあらず。 彼は我にもあらざるなり。 所謂自我一体の境涯に達しなば、其にて己の己なりしことを覚り得ることは易し。されどその後の修養修行こそ大切となるなり。 何となれば魂と心の一体化して、自己の個性を見出したりとて其にてよしと云ふにあらず。個性を見つけてその個性をのばすにあらざれば、何等の価値もあらざるなり。諸子は彼是思ひ惑ふは自然を知らざるが故なり。自然に順じて、其によつて初めて心魂一体の法は得らる。然るに諸子はその自然を知らざるが故に、彼や是やと思ひ惑ふによって却て時間を空費するの他何等得るところはなきなり。地球は自然に順じて廻転なし居るが故に、諸子は安全に生活をなし居るなり。 小さき例にとりて語るならば一個の磁石が常に南北を示す。其が他の金属を近寄せて是を廻転せしむれば、右に左に或は順逆に廻転せしむる事を得れど、その金属を遠ざくれば忽ちもとの南北の位置にかへるにてはあらざるか。自然とは先づかくの如し。諸子はそれを他の力によつて曲ぐるは自然を逆用なし居るにすぎず。 心魂一体に於てもかくの如き行ひをなし居りては、望のはたされざるは当然なるべし。 諸子はあまりに他を求むるが故に迷ふなり。恰も磁石に金属を近づくるに等し。他を求めずば本然の位置にかへる。是即ち個性の特徴なるによつてなり。 他を求めずして先づ自を求めよ。 他を求むれば相対となり、自を求むれば絶対となるによつてなり。

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