未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百十三回 絶対界 巻の三 絶対界 第六講 呪などには何万何十万と云ふ方法あり。祈禱に於ても又同様なり。是等みなその悉くが暗示の方法にすぎざるなり。 迷信にもあらず。又妄信にもあらざるなり。唯方便として人の心を執着より離れしむる方法に用い居ると知らば、敢て不審するには足らざるならん テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています

絶対界
第六講
心と霊気の交はりの関係について
      テツシン貴尊講義



 従来よりのベ来りたる如く心意魂魄霊の関係は、既に諸子も解したるならん。 是等のすべては皆悉く気によつてつながれ居ることも考慮せざるべからず。心と意との陰陽関係に於ても、気によつてつながれあるが故に、ここに摩擦を生じてはたらきをなす。 魂魄の陰陽に於ても同様の関係あることも推して察するを得るならん。されば心と霊気の交はりに於ても気によつてはたらかされ居ることを考へざるべからず。汝の心を我と見なして考ふる時、魂は仮に神なりとして先づ考へ見よ。 神我一体とは即ち魂と心の一体となるにあらざれば望みは達し難からん。然りとせば魂と心をつなぐものは即ち霊気のはたらきなるべし。 先づこの理をよくよく明らめてすべてを考察せばものの理は明らかに知ることを得ん。例へば肉体の病ひと心の病ひとを区別して、心の病ひを病気とし、肉体の病患を病身として取り扱ふならば、肉体の病ひには薬石を用いて治癒の法を択ばざるべからず。さりながら病気と云ふ心のわづらひは薬石にては治癒すること難からん。 ここに病気と病身との両者を混同して取り扱ふが故に、種々様々の迷信盲信が現出して、諸子を迷はする結果となり居るなり。諸子は肉体の病ひに対して、病気と一言に称へ居る結果、斯る誤ちを惹起して誤てば人命を失ふことすら敢てなし居るなり。病気ならば呪にても祈禱にても治癒することもあるならん。 されど病身ならば斯る事によつて一時は治癒したる如く感ずれど、そは病気のみがうすらぎて、病身は一時圧迫せられて働らきを止めたるに他ならざることは云ふ迄もなし。 是には医薬の備はりあるによつて斯る事に耳をかさず、直ちに薬石を用ゆれば治癒すること疑ひなからん。 肉体の病ひは、心の病ひに比してさのみ苦しきものにあらず。 肉体の病ひに心のはたらきが加はるによって激しき苦痛を感ずるなり。 是等の道理は、現今の科学にても証明せらるる筈なり。然るに諸子はこれを知らず。 知りても惑はされて呪祈禱等に委する如きは、実に愚なることなり。呪祈禱とは唯方便にして、悩める者の心持ちを他に転換せしむる方法にすぎざる故なり。呪祈禱は、心と魂の間をつなぐ零気にして、気の病ひとはその零気がくもりたるに他ならず。 故に呪祈薦等の法を以てその雲を払はば、心の病ひは忽ち浄化されて、悩みの影を没するに至るにすぎざるなり。呪祈禱は一種の暗示にすぎざる事は、諸子も末知日記前巻によつて知り得ることと承知す。故に深くは記さじ。呪祈禱等によって病気が治癒せられたる人は、たとえ其が迷信妄信にもあれ受け入れて安らかとなりたる以上、その人は救はれたるにはあらざるか。疑ふものには通ぜじ。其は暗示となりて働らかざるが故なり。道理は先づかくの如し。むづかしきものにあらず、呪などには何万何十万と云ふ方法あり。祈禱に於ても又同様なり。是等みなその悉くが暗示の方法にすぎざるなり。 迷信にもあらず。又妄信にもあらざるなり。唯方便として人の心を執着より離れしむる方法に用い居ると知らば、敢て不審するには足らざるならん。

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