未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百十二回 絶対界 巻の三 絶対界 第五講 先づ心と魂との区別 自問自答の法とはこの反射力を応用して魂に迄到達せしめ、然してその魂より正しき答へをなさしめる方法に、他ならずと知らば可ならん  テツシン貴尊講義

 ヒロさんの転記したものをここに掲載しています

絶対界
第五講
先づ心と魂との区別
           テツシン貴尊講義



 兎に角心のみの生活に甘んじ居りては、動物性にて終るの他なし。早くめざめて魂を見出し、是に心を委せて心魂互に融和した生活をなすことによつて、はじめて人間の姿となるなり。然らずばすべての事柄に対しての善悪邪正は知る事難し。何となれば動物性自然と、人間性自然とには大なる相違あるによりてなり。 相対性自然の中にも亦斯くの如く、小自然と大自然の区別あればなり。 心の善悪邪正と、魂の善悪邪正とには相違あるによりて、悩みは清除せらるるなり。例へば一個の宝を見たる心が是を盗まんと計るとき、その陰にひそみたる魂が、汝其を奪ふ勿れと教ゆるならん。其故に心は盗みをせざるなり。獣類はその明らめをなすことを得ず。欲すれば忽ち是を奪ふ。斯る事より推測せば、獣類には心のみありて魂のなき事を知るならん。 我斯く語らば諸子は云ふならん。手なづけたる動物は如何にと。是等は彼等にも心あるが故に、そのはたらきが人間より命ぜられてなさるるのみ。所謂人間の教へが彼等の心を化せしむる力あるによつてなり。 されど獣類には魂なきが故に、一度人間をはなるればもとの如く欲するものは勝手気儘に奪ふことをなすは、是彼等に魂なき証拠にして、先にも語りし如く獣類には人間の心に相当するものが、彼等の魂なるが故なり。是を人間にとりて考ふるならば、動物性本能とは心にして、人間性本能とは即ち魂なることの証明は是によつても明らかに知らるるならん。
 反射力と云ふは心のはたらきにして、魂のはたらきにあらず。人間には魂あるが故に、心は二分されて是非の二つに別れ居るが故に、是と云へば非と解し、非と云へば是と解する如き反射作用を起せど、其は唯魂によつて二分せられ居るにすぎざるなり。 謂はば心は魂に達して直ちにもとにかへる。 是はこだまの如しと知らば可なり。 魂が是非の区別を与へ得る余裕をあたへずして、直ちにもとに復するが故なり。自問自答の法とはこの反射力を応用して魂に迄到達せしめ、然してその魂より正しき答へをなさしめる方法に、他ならずと知らば可ならん。是等の方法は前巻にくはしく語りあるによつて、 諸子は既に承知なし居る筈なればくはしくは語らじ。もし諸子にして魂と心が何等の障碍もなく融和なし居るものならば、その反射力が忽ち答へとなりて心に通ず。故に心の反射力と、魂よりの反射力とには相違ある事の理は、推して知る事を得ん。
 例へば、己の好むものを見て奪はんとする時、心のみの反射力ならば、奪ふべきか奪ふ勿れ。奪ふべきか奪ふ勿れと、再三再四繰り返してとやかく迷ふならん。 是が魂との反射力とならば、奪ふべきか奪ふべからずにて終るが故に、悩みはあらざるなり。其が次第に魂との交はりを深くすることに依て、欲するものを見るとも奪ふべきかの思ひなどはおこらざるなり。故に何等の妬み嫉みの心など露程もおこるものにあらず。 既に心は魂に依つて手なづけられ居るが故なり。恰も動物が人間の手によりて、育てられたると同様の結果なるに依てなり。 心を魂に融和せしむる事により、執着は清除せらる。 所謂棄執着の法とは、心を魂に同化せしむるにあらざれば、心のみにまかせ居りては、如何に苦み悩むとも成就するものにあらざる事の理は、是によつても明白ならん。是小自然と大自然の二つが、互に流転なし居るが故に、修養の道は作られ居るなり。拾も歩みのそれの如しと思はば可なり。この両自然がすべてに通じ居るが故に、進歩発達は得らるることの理をさとりたれば其より以上は、是を大自然に化せしめて一体となりて、更に次の小自然大自然の順序を追ふて歩みなば、最後には大自然の一路に到達して神の道に順ずることを得るなり。文意不明瞭にして解し難からん。されど是を読むもの考慮を払ひつつ、自得して更に順路を歩まれんことを望む。
 この事柄より現今諸子の世界に於て彼是論議せられ居る世渡りの方法を観察し見よ。 或は是とし非として、互に論議を交へ居れど、 其等の悉くが水掛論となりて是非をたしかむること少なからずあるならん。是等は魂によつて作られたる法則にあらざるが故なり。神の定め給ひし法則には、斯るまぎらはしきものとしてあらざるなり。 魂の生活と心の生活とにはかくの如き相違あることに留意せられたし。諸子は人と交はるに心の交はりをなして、魂の交りをなさんとせざるによつて相争ひ、又相睦む等の行ひを持続し居るなり。故に何日かは真の融和をなすこと難からん。人間性の交はりならば決して争ひの生ずるものにあらず。心のみの交はりなるが故に、世は安からざるなり。夫婦間に於ても心のみの夫婦なれば、離婚する等の誤ちをおこせど、魂の夫婦とならば斯る事のあらざるは当然なるべし。古来日本の伝説に、遠く離れてありながら親と親との約束にて、結ばれたる夫婦が、互に顔をすら見知らざるに、一方が死したりと聞きて、生涯己縁附かざりしと云ふが如きことすらあるを我等は聞きたり。現今の男女間に斯る人のありやと聞かれなば如何に答ふるや。又斯る伝説を聞きて愚者と嗤ふや。我等に云はしむるならばこの伝説が真ならば、その夫婦こそまことの魂によつて結ばれたる夫婦として我等は賞讃するものなり。 人間の交はりに於ても斯くありたきものなりと思ふなり。 斯くの如き底の交はりをなし居るならば、世の中の争ひは影を没して平和の世界とならんと思ふが、諸子には如何に感ずるや。余事は別として魂と心との相違は先づかくの如し。

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