未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百八回 絶対界 巻の三 絶対界 第四講 第四講 神我一体によって真の自由は得らるるや 近来の科学者が心霊とか称して、妖怪を彼是論じ居る如き愚昧なるいたづら事は、恰も小児が玩具を以て遊ぶに等し。斯るものは霊にあらず。故に斯る考へを以て研究なし居る間は、到底霊はおろか神を知る如きことは及びもつかざるなり。 既に二流界の人類ともならば斯るたはむれごとは小児と雖もなさざるなり テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 

絶対界
第四講
神我一体によって真の自由は得らるるや
         テツシン貴尊講義


 近来の科学者が心霊とか称して、妖怪を彼是論じ居る如き愚昧なるいたづら事は、恰も小児が玩具を以て遊ぶに等し。斯るものは霊にあらず。故に斯る考へを以て研究なし居る間は、到底霊はおろか神を知る如きことは及びもつかざるなり。 既に二流界の人類ともならば斯るたはむれごとは小児と雖もなさざるなり。 諸子の世界に於ては迷信とか盲信とか、たはけたることを如何にも誇大に吹聴する如き愚者は余りに多し。 斯ることにて如何に霊を研究すとも、到底霊の端緒すら知ること難からん。呵々。
 宗教者は諸子に向ひて活眼を開らきて天の高きを見よ。 又眼をおとして地の低きを見よなど語り居れど、宗教者にして真の天を眺め地を眺め居るものありやと、我等は疑はざるを得ざるなり。諸子の中には天の高きと云へば唯星をながめて彼是論じ居るのみにて、正しき天の高きを活眼によりて眺め得る人はあらざるなり。 天の威徳は魂霊一体となるにあらざれば到底計り知ること難し。諸子は心をのみはたらかせて肉体の神経に和して、身心一体の生活をなし居るによって見る眼はせまし。さればこそ望遠鏡をかり、或は顕微鏡によつて肉眼より心に通ぜしめすば、見ることあたはず。よし見えたりとするも其は微々たるものにて取るに足らず。わづか機械の力のはたらきにすぎざれば、かかることはもとより論ずるに足らざるなり。見ることあたはざる天界の真相を、魂霊一体化して見るにあらざれば、全宇宙の如何なるかを語るも、其は机上の空論なりとのみ感ずるの他なからん。教主が無言詞界の様を語らるるに対して、この予備智識を有し居らざれば到底理解することあたはざるべし。 先にも語りし如く儲子は己の空想を是以上考ふるはずと云ふ程度迄拡大して、尚一層拡大力を増進せよと語りしも此事あるによつてなり。 諸子の心は恰も針の穴より天を覗くの譬喩よりも尚小さし。さればこそ狐狸むじな等に誑ささるる等の迷ひを、今尚有し居る人も多し。人間にして動物に劣る如き心にては、天理を究めんなどは思ひもよらず。 斯る迷ひを一掃して心を魂にうつして更に魂を霊に任せよ。 然らずば真の自由は得られざるなり。 我等の語る自由とはなしてならざる事なしと云ふ程度迄進まずば、真の自由とは云ひ難し。 なさんとしてならざる如き自由は、真の自由にあらず。 諸子は勝手気儘の行動をなして、其は真の自由なりと考へ居る如き微々たるものは自由にあらず。 神の法則に従ふが故に、真の自由は得らるるなり。是等の道理は教主によつて明らかに知ることを得るならん。 鳥は空を飛びまわる。果して其が自由と思ふや。鳥は空を飛べど翼の力衰ふれば地に落つ。斯る事を諸子は真の自由と考へ居るが故に、其は限度を有する自由にて、正しき自然の自由にはあらざるなり。 神はすべてのものに自由を与へんが為に、不自由なる形をつくり給ひしなり。人に翼をつくり又水掻をつくりて空をかけさせ水を潜らす如き自由を与へんとならば、神は即ち是等をつくり給ふならん。然るに九流界に於て使役せられ居るクウワオなどは、天かけり水をくぐる事をなし得るに不拘、是は動物にて人間にあらざるを見ても、明らかに此理を知ることを得るならん。 汝等は、不自由なる肉体に何を宿され居るや。 肉体の自由を得て其にて満足なし得るものならば、クウワオにも及ばざるものにて、人間としての価値は那辺にありや。

×

非ログインユーザーとして返信する