未知日記霊話集未知日記霊話集 第千二百九十九回 絶対界 巻の三 絶対界 第二講 大自然と小自然の関係 諸子はその物品を常に忘れず用い使用し居らば、従つて芽を出し花と開らくこと疑ひなく、又呪を間断なく持続し居らば何日しかその法力によって招魂はもとより遊魂の法に至る迄、自得することを得るは大自然の法力がかくなさしたると知らば可ならん テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています 


絶対界 第二講 大自然と小自然の関係
            テツシン貴尊講義


 諸子は斯るものを見て形に囚はれ居るが故に、珍らしきとか有難しとか云へる念の生ずるならん。されど斯る誤ちたる念は早く明らめよ。 然して正しき自然より是を見なほすならば唯訳もなきものにて、形状の異なりたるにすぎざるなり。何等意とするに足らずと知るべし。
兎に角大自然とは零の霊にして、他にはなしと語り居るはこの理なり。然るに是が次第に絶対相対とながれ現はるるに従って、実在に化せられ来る時、諸子はその実在のものを根本自然として考ふるが故に、ここに至って自然を誤つこと多し。 所謂諸子の世界は中途自然の法則を応用したるものにて、絶対自然或は絶絶対自然の程度迄考究して事を観察せざるが故に、正しきさとりは得られざるなり。
大凡絶々対の自然にはその範囲きはめて広きが如く感じらるれど、更に是を一体化せしめて考ふるならば、霊の原理はすべて一体にして唯異なるところは、作用の如何によって変化なし居るのみ。別段不審するに足らざるなり。この極致に考へを廻らさば、なしてならずと云ふ事一としてあらざるなり。大自然は斯くの如く不可思議なる意味を有す。 無量無辺とは大自然を措いて他にはなかるべし。
例へばこだま会に於て泰岳が諸子に力を与へんと称して、様々の物品に何か法力を用いたり。是等に関して諸子は如何に考ふるや。 こだま会の人達は唯不思議なるものよとのみ感じて更に考へを廻らさんとはなさざれども、もし他の人が是を聞くならば愚なる事よとて嘲り嗤ふ人もあらん。 又是を単に冷笑して眼を向くる人もあらざるべし。 知慧浅きものはすべてはこの種の類なり。 彼等は是等を迷信として嘲り嗤ふは大自然の道理を知らざるが故なり。 泰岳はミキョウの坐にありて重く用いられ居るものにて愚者にもあらず。 彼はなさんとせば何事をも行ひてならざる事なき
力を有す。故に彼の力は広大無辺にして通ぜずと云ふことなし。されば、彼は泰岳となりて慈音に至り、慈音を通じて、 諸子の物品に力を与へたるは何故ぞ。 是等は泰岳にして諸子の信仰の程度をよく知るによって斯る法を用いたるに他ならず。何となれば泰岳にして諸子に力を与へんとならば品物の有無に不拘、諸子をして一種の力を授け得ることいと易し。其にも不拘品物に力を与へしは霊気を移したるだけにて、 諸子はこの品物によりて、霊気を育つることを知り居るによって斯く取り計らひしなり。所謂諸子は実在のものにあらざれば、信ずることの難きを知るによってなり。 彼は又喚魂の呪(じゅ)を諸子に伝へたり。然るに慈音の耳をふさぎしは何故ぞ。慈音は斯る法を用いずとも自由になし得るをよく知るによつて、斯る法は教ゆるも詮なしと知りて耳をふさぎたり。されど諸子の信仰の程度は左にあらず。故に実在的方法を示して、其によって魂の程度をたかめしめんと計りしに他ならず。 是等は大自然の法則より生れたる一種の方法にすぎざるなり。故に諸子はその物品を常に忘れず用い使用し居らば、従つて芽を出し花と開らくこと疑ひなく、又呪を間断なく持続し居らば何日しかその法力によって招魂はもとより遊魂の法に至る迄、自得することを得るは大自然の法力がかくなさしたると知らば可ならん。

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