未知日記霊話集未知日記霊話集 第千二百九十八回 絶対界 巻の三 絶対界 第二講 大自然と小自然の関係 諸子は盲人なり。我等は手引きの役目を命ぜられたるにすぎず。されば我等の手にすがりて歩みを続けよ。 我等は決して諸子を転落の方向にむくるものにあらず。是大自然の道そなはりあるが故なり。 生れて死すと云ふが如き小自然の中に含まれたる中途自然にふみ迷ひ居りては、何日か大自然のふところに抱かるる時節来るべき テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています



絶対界 第二講 大自然と小自然の関係
            テツシン貴尊講義



 空より空を追ひ求むればはてしなし。 はてしなき所を盲目的に歩み居らば、転落するは当然なるべし。諸子は盲人なり。我等は手引きの役目を命ぜられたるにすぎず。されば我等の手にすがりて歩みを続けよ。 我等は決して諸子を転落の方向にむくるものにあらず。是大自然の道そなはりあるが故なり。 生れて死すと云ふが如き小自然の中に含まれたる中途自然にふみ迷ひ居りては、何日か大自然のふところに抱かるる時節来るべき。 生れて死すも自然なり。されど其は小自然の中の小自然に他ならず。 所謂相対自然の中の複相対なるによつてなり。網の目の一角を追ひ求めて廻転なし居らば何日かは、その目を度脱することの難きは当然なるべし。
 ここに又注意することあり。 諸子は自然と云へば人工を加へずして組織せられたるものを聯想し、人工を加へたるものならば是を自然とは考へざる傾きあらん。例へば路傍に落ちたる一個の石が何等人工を加へずして、仏の姿になり居るを見ば、是は自然石の像なりとして珍重なし居るを我等は見る。 諸子は是等を自然像或は自然石として、自然に形づくられたるものなれば、自然とは斯るものなりとの考へを有するならんが、是等を我等に云はしむれば其は自然にあらず。 偶然現出と見るの他なきなり。一個の石をとりて是に印刀を以て仏体を刻み上げれば、其こそ真の自然に合ふにて是等は不自然にあらず、又偶然にもあらざるなり。諸子の考へと我等の説とには斯る小さき例に於ても相違ある故に、我等の語る自然と云ふ言葉に対しても、諸子は曲解すること多きため、正しき自然を認識することを得ざるなり。 印刀を用いて彫刻するにあたつて自然に逆らふ方法を用いなば、像は刻み得るものにあらず。自然の法に従ふが故にかたちづくらるるなり。 是等を自然に順ずと云ふ。像を刻みてならざるは、自然の法に逆ふが故なり。 何等人工を加へずして像にかたちづくられたる石などは自然にあらず。是等は種々様々の化合がたまたま斯るものに現出したる迄にて、 決して自然のものにあらざるなり。されど是等は珍らしきものとして喜ばるるは不自然の現はれなるによつて唯珍らしきと云ふにすぎざるなり。斯るものを自然の姿と見なして尊び祀る如きは愚も甚だし。斯るものこそ不自然のものにて尊ぶには足らざるなり。大理石にて造られたる石塀に数多の仏像が手を加へずして、百体干体現はるる如き事あらば、斯るものこそ不自然のものなれば我等は是を卑しむ。されど諸子は斯る事のありとせば驚愕して其前に手を合はせ、拝する如き愚をなすならん。自然はかかる事のあらざるが故に、諸子は曲解せざるやう注意せられたし。石像をつくり、木像をつくる等々は相対自然の現はれにして、絶対自然にはあらざるなり。大岩石が地上に置るるも相対自然の現はれにて、是等は絶対自然にはあらざるなり。この理をよくよく認識するにあらざれば、大自然の如何なるかはさとること難し。相対自然と云ふも絶対自然のながれあるが故なり。即ち絶対自然のながれが別れて、相対自然をつくり居る事に留意せば可ならん。人工を加へずして現出したる像と雖も、もとより自然のながれの備はりはあること云ふ迄もなし。形を見ることなかれ。形に囚はるること勿れ。 然らずば自然は解し難し。

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