未知日記霊話集未知日記霊話集 第千三百十回 絶対界 巻の三 絶対界 第五講 先づ心と魂との区別 彼は時には心の人となり、時には魂の人となり、又或場合は霊の人となり居るが故に、 我等と共に語らひもし、教主の導きをも喜びて授かり居るなり テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています

絶対界
第五講
先づ心と魂との区別

                      テツシン貴尊講義


 諸子は心と魂の区別を知らざるが故に、自然の理をきはむる事あたはざるなり。 心を魂と考へ居りては、到底人間の何なるかを知ることを得ざるは当然なり。人間と動物の異なる処はここにあるなり。獣類には人間に有する魂はあらずして、人間の持つ心に相当するものが彼等の魂となり居るなり。故に獣類には、人間の如き魂の具備はあらざる為、如何に努力すとも人間とはなり難くして進化の程度きはめてうすし。九流界のクウワオと雖も、人間の有する魂のあらずして心のみが備はり居る為、彼等は是を嘆き、早くその魂を求めんとして生命短からん事を望み居るなり。是を一言詞すれば獣類には心の魂ありて、人間の如き大なる魂の備はりあらずと知らば可ならん。 彼等の魂は人間の心に匹敵す。斯く考れば諸子は人間に生れし喜悦を、感謝せずしては申訳なしとの念は生ずる筈なり。諸子は魂を知らずして心のみ働らかせ居りては、動物と何等異なるところなき生活にて終らん。 実に勿体なきことにてはあらざるか。現今諸子の世界の人類はすべて心のみの作用によつて世を建設せんと計り居るため、その生活態度に於てもすべては動物性に化せられ居るなり。 心の智慧の拡大するは、蔭に魂の宿り居るが故にその光明をうけて、他の動物よりすぐれたる考へを有せど、心のみの作用にては魂の光明にすぎざるが故に、その程度はきはめて低し。
 されば魂を発見するには何かの方法によつて、是を求むる道なかるべからず。心の作用のみにては苦みに苦みての後にあらざれば望は達し難し。 是を魂に任せなば、苦まずとも自づとすべてを明らむることを得るなり。 心は枝葉なるが故に限度を有す。魂はその根に相当するものとして考ふれば、是を発見するには左のみ至難にはあらず。もとより人間に与へられあるが故に、心を是にかへせば忽ち魂は現はれてその任務に順ず。諸子は己に有するものを知らずして、心のみを働かせて其によつてすべてにあたり居るが故に、迷ふこと多し。
 慈音は日常他人との交はりにあたつては心のみを以て是に交はり、己指導者の任務に服する時は、魂を用いて是にあたり居るなり。 先に語りし、慈音は大自然と小自然の間に立ちて行じ居ると語りしは是なり。我、斯く語らば諸子は思ふならん。魂を見つけたる慈音ならば何故魂を以て、人との交はりを常になさざるやと。もし慈音にして魂のみ働かせて世に処し居るならば、世間の人は是を狂人扱ひにして交はりを結ぶものあらざるべし。其は諸子と慈音との隔りが余りに遠き故なり。故に慈音は魂を現はさず、諸子と同様に心を以て諸子と交はりをなし居るなり。されど慈音は人を陥れ或は人を犯す如き振舞は、魂の威徳が心をはたらかせ居るによつて、彼は罪悪を犯すものにあらず。
 彼は時には心の人となり、時には魂の人となり、又或場合は霊の人となり居るが故に、 我等と共に語らひもし、教主の導きをも喜びて授かり居るなり。人見て法を説けと云ふ言葉もこの理なり。霊の人となり、魂の人となりて何も知らざる常人に対して交はるとも、それは決して通ずるものにあらず。多くの人より狂人扱ひせらるるの他なきことを知るによつて、彼は小自然大自然の間にありて生活をなし居れど、人来らざる時は魂の人となりて我等の導きを受け居ることの理は、諸子もほぼ察せられるならん。 小自然に順ずるは心にして、大自然に順ずるものは魂なりと知らばここに一段の工夫なかるべからず。

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