円海大師の出家    衛藤慈声    行者の生活その一端

衛藤慈声先生の回顧録より転記する



 この円海貴尊は、徳川氏元禄年間の末期に土佐の武家の息子として出生されたのであつたが,不幸にして年少にして父君を他人の刃で討たれたのである。当時の武士の風習に従って仇討ちの旅に出なければならなかった。
遂には路銀も使い果たし,野に伏し,山に臥す困苦に耐へて諸国を経めぐる間に徒に壱拾余年の歳月を費やして仇の在所は知られなかった。
季節は丁度春四月,釈迦降誕の法要が営まれていた。田舎寺の群衆の中を貴尊は歩いて居られた。その時,托鉢の一人の旅僧が貴尊に近づき,しげしげと顔を見つめて声を掛けられたのである
「お武家!貴下は仇を探して居られる。」
「いや,違います。」と貴尊は答えられた。
「隠すには及ばない。貴下の人相に表れて居るから申すのじや。然し仇を討ち取ったとて其れで死者の妄執が晴れるというものではない。武士の則と言ってみても所詮は人間の妄執じや」とその旅僧は肉体は切れても精神は切れぬ。互いに殺し殺されてなんになる。結局は妄執を重ぬるにすぎぬではないかと
物静かに大自然の道理を説かれたのであった。10年の歳月を得て父の仇を討って其れだけでよいものか。其れで万事一切が真に片づくものか。如何かと内心密かに疑念をもち,思い悩み迷って居られた際とて貴尊には旅僧の一言一句が心に滲み,身に沁みた。結局意を決して仏門に入られた貴尊は空しい幾年を過ごされた末に山岳教に転じられたが其処にも心は満たされなかった。斯くして,最後に選ばれたのが行者道であった。以上はこだま会において慈音老師の口を通じて自ら語られた,貴尊入山前の概略である。又,大師が仇とつけ狙っていたその人も亦,行を積まれて大徳の行者となっておられた。と大師は語られた。
次に引用するのは貴尊が「未知日記」の講義にて自ら述べられた談話である。
「私は三十年間各地を放浪して一定の職も無く,唯無駄な日々を送っていたに過ぎなかった。それから以後百五十年間全く夢の如くに過ぎてしまった。
考えてみると私は何のために世の中に出てきたのだろうかという,何だか取り留めのない年月を重ね,世上の交わりとは全くかけ離れた生活を続けていたに過ぎなかった。
短いようでも百五十年といえばかなり長い年月であったに違いない。だが,私には其れが長いとも短いとも感じなかった。世上の人は美味美食を求め贅沢三昧に日々を送っている。私と雖も若い頃は女性を恋したこともあつた。深山にわけいって,師の坊より肉体の苦患を味はされ,辛き思いをなして其れが何になることぞというような棄鉢的な考えを持って,あまりに我惨めさを想う時,下山して還俗しょうかとも感ずることは屡々であった。生きて居る以上,鞭打たれれば痛みを感じ,食せずば空腹を感ずるは当然のことにて,寒気身に迫り白衣一巻にては凍死するやも計らず,斯かるときは実に悲しくもあり,又莫迦莫迦しくも覚える事は我も人である,我も人間である。肉体の具備ある以上これは是非無きこと。泰岳の如くすべての行に対して喜び勇んで任務に服するようなことは私には到底難しく感じられた。
師の坊曰く「汝等は難行苦行と思うによって行は進まざるなり。泰岳の如く喜び勇んで行ずるならば難行苦行も消滅して苦痛を感ずるものにあらず。石上に端座して,頭腹一体の法を求むるは是安楽の法にして苦患の法に在らず。
楽しみを得んが為の苦しみは是苦しみに在らず。汝等よくよくこころせよ。」と屡々仰せられ其の都度痛棒を味はされたり。
法を伝えられて行なはずば何等の価値もなし。法力を錬磨する者は全く命がけの態度なれど,門外の人より見るときは滑稽に感じられるであろう。斯かることをなして法力を会得したりとて百人,千人悉くなし得られるものにあらねば,実に異様の感にうたるることは察せらるるならん。斯かる事をなす隙にて人間としての働きを他にもとめて其れにいそしみおるならば世の中にもてはやさるる人物となる事もあらんに,山間僻地にありて斯かる行をなすとは,はてさてものずきなるものかなと嘲る人もあらん。我等も時々は斯かる行を廃して他に道を求めんかと思ひしことも幾度かありしなり。然るに行徳備わり,法力加わるに至りて此処に迷夢より醒め,真実の人間の道は明白に眼に写るようになりて今更人間の道の余りに広大なるに驚きたり。
其は法力,行力の熟達したるによってにあらず。心の迷いが悉く清浄せられて,魂の威徳が現れきたりしなり。」と修行の経過を以上の如く述べられた。

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