未知日記霊話集千五百八十四回  帰途案内記 NO3 されど我等が案内せんとする所は相対の処にあらねば、生滅の区別はあらざるが故に永久不変にて至極安全なる所なれば安らかなること疑なからん。   果して斯る処のありやなきやは漸次説明する事によって認識せらるる事ならんと我等は承知す セイキョウ貴尊講義

未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の一
大序の巻 
NO 3
セイキョウ貴尊 講述


 地球より見たる星の世界に憧れて唯一すじに上昇せんと計らば、其は大なる過誤となることは今も語りし如くなり。例へば世人は高き山を遠方より観望して美しき山なれば一度登り見んと思ひて、さてその山に足を運ぶとき遠方より観望したる如き美しさと異なりたるのみか、却て険しく然して醜き数々のものに遭遇し、或は数々の危険に会ひて斯る苦き所なれば登らずして遠方より、観望し居らば却て美しかりしと後悔することあらん。其と同様にて天界は汝等世人が思ふ如き又下界より見る如き安らかなる所にあらず。又下界より見る如き美しき所にもあらざるなり。
 星の散在せる所に上らんと考へんよりは寧ろ安全なる汝等が世界にながく生存する方は却て安らかなるべし。一見すれば星の散在せるところは唯眼に映る光にて美しく見せるのみにて、事実は千変万化きはまりなく、或は破壊され或は集合し間断なく繰り返へされて、今姿あるものは忽ち飛散し、又彼と是との集合によって或は一体となりて燃え上り、砕けては飛び、飛びては集る。斯る所に住居なさんとせば分時も安からざるべし。人死して至る処は天界なりと宗教者に聞かされて斯る危険なる所に至るならば、恰も遠方より見たる美しき山に登らんとして苦みを招くと同様の結果となること疑ひなきなり。よって我等は世人を安らななる所に導かんとして、努力なし居ることに耳目をむけよと勧むるなり。果して安らかなる処のありやと世人は又もや不安の念を抱くならん。すべて世人の肉眼に映り居る処は悉く有物なるが故に限度を有す。限度ある場所は消滅し、且つ出現するが故に危険はまぬがれざるなり。されど我等が案内せんとする所は相対の処にあらねば、生滅の区別はあらざるが故に永久不変にて至極安全なる所なれば安らかなること疑なからん。 
 果して斯る処のありやなきやは漸次説明する事によって認識せらるる事ならんと我等は承知す。是等の事柄を語るに先だち、先づ世人の現在称へ居る時速十八万里の運行を基として考へ見るべし。宇宙の運行を時速十八万里と仮定して、是を肉体に応用せば一日の運行は四百三十二万里となるならん。然りとせば嬰児の一日も、老者の一日も兎に角四百三十二万里の速度にて肉体も精神も共に運行なし居るにてはあらざるか。然りとせば一日の光陰を空しくせば身心の位置は四百三十二万里の隔となりて空費せらるることに思ひを致さざるべからず。とにかく秒速五十里の光陰を空しくなしつつあるにてはあらざるかを考慮せば、一秒たりとて空しく過すことは勿体なしとの思ひは浮ぶならん。

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