感応論    第四巻   霊に対する気光素の関係   テツシン貴尊講義  2020.12.20    テツシン貴尊講義

感応論    第四巻   霊に対する気光素との関係    テツシン貴尊講義2020.12.20


 外観と内観について


 人は果実を得んとて樹木を育て、樹木は育てられたる人の使命に応じて結実して是に報ゆ。人は神に造られて何を返納するやについて、汝等は考へし事ありや。若し考へし事ありと云ふならばそは何を返納すべきかと我は詰問す。汝等は云ふならん。我等が神より受けし使命を果さばよしと。然らば重ねて問はん。此使命とは何なるか。すべてが持つ個性なりと云ふか。然らば汝等はその個性が果して神の使命なりとの自覚を如何にして悟り来りたるかと、追窮せられて明答を与ふる事あたはざらん。もとより神の使命に順ずるも結実の意味に異なる処なからん。されば神に於てもよしと見給ふなるべけれど、我の述ぶる処は今一段優れたる献物ありと思ふなり。そは他にあらず。汝等が魂魄を完全に結実せしめて神に返納する事なるべし。
 大切なる霊より養育せらるる魂魄を人間としての魂魄を知らしめず、動物性にして神に返へさば使命は果さるるとは云ひ難からん。汝等は外を見れば内を忘れ、内を見れば外をなほざりにする故に、内外の大事を欠く事多し。故に人間の魂魄を忘れて動物性に返るを以て進みし事も逆行するなり。是ぞ内観と外観の理を明らめざる所以なるべし。内観及び外観を明白に知りあらば斯る過誤なければ心得おかざるべからず。汝等の考へにて内観外観と云ふを検すれば一般の人は唯外を見、内を見ると解釈すれど、汝等は心の内心の外と思ふならん。然して外の神を拝せんとするは外観にして、身の霊をするは内観ならずやと云ふならん。其も汝等の思ひ誤なけれど、我、今語らんと欲するはややその趣を異にするなり。
 我、此講の始めに魂魄を磨きて結実を完全にせよと云ひたるは他にあらず。内外観に及ぼす影響の大なる理由あればなり。汝等神に祈らんとなす時、手を合はせ眼を閉ぢ頭をたれて心を外にむくるは内観か、或は外観かを考へみよ。そは外なる神を求むるならば外観に属すならん。されど肉眼を閉ぢ肉耳を蔽いて外の見ゆる理のなき事を知るならば、見んとなす心の眼、心の耳にて見,聞きせんとなすならん。斯る時は既に肉体を忘れての態度なるべし。又己が霊に訴へんと考へての祈りなりとせばそは内観とならん。何れに属するも肉体を忘れての祈りとなり居る姿なるべし。魂は光なれば外を見んとせば外に行き、内を見んとせば内にかへる。魄は気なれば霊気に和せんとして内外の気に和するなり。
 我の説き説かんとなす処は此内外観を明白に知らしめんと欲するなり。汝の声は汝に出でて山彦となりて汝の耳に返る。この例より内外観の理を推し計り見よ。己に出でて己にかへるとせば、即ち外内は同時に聞えたるによりて一如の姿となりしを知らん。返りし声は内観に合ふ道理あればなり。故に内観は外観に合ひ、外観は内観に合ふと解するも差支なからん。魂は外なる霊を見、魄は内部の霊を見て内外一如となるによって、魂魄は磨かれ育てられてここに結実を全うして神に召さるるなり。ミキョウが語りし米のみのりし比喩を参照せよ。

 魂魄完全に清めらるるは内観と外観の両方面より洗ひきよめられたる魂魄の輝きを増す。結実全くなれば神の使命は果されたる事も併せ考ふべし。汝の肉体全部を包和せる霊なればこそ、内観のみにてはその力その働きの半ばを知るに由なく、外観のみに於ても亦同様の結果となる。故に内外を見、是に依て霊の尊さを知らざるべからず。此処に至るには内に尊敬の思ひを貯え、外にも崇敬の心にてむかはざれば、内外は一如となる事なけん。所謂(?)の道理は此処にありと思惟して内外共に拝すべし。

×

非ログインユーザーとして返信する