感応論    第三巻   祈りて効ありや その弐   テツシン貴尊講義  2020.12.12

感応論    第三巻   祈りて効ありや その弐   テツシン貴尊講義  2020.12.13


 「人、我の右の頬を打たば左をも打たしめよ」と云ふは未だ我をはなれし愛にあらず。「人、我を打つことを得ざらしむる愛に」、あらざるべからず。故に我を憎むものなきに至る迄の愛をもたざれば真の慈悲とは云ひ難し。斯く語らば汝等は云ふならん。「我等は凡俗にて神仏聖人君子にあらざれば到底斯る境涯に進むことあたはじ。理は宜しく耳に聞き、心にかかる境地に達しなば」とは思ふなり。如何に教へらるるともそは望み難しと云ふならん。釈迦も始めより仏にはあらず。孔孟も最初より聖人君子にはあらざりしならん。その素質天分は具はり居りしは別として、彼等も修行努力を重ねし報なり。汝等に於ても我言葉を聞きて心によしと思ひて是を忘れず、胸中脳裡に蓄へ置かば其にて可なり。我は是非に行へよと命ずるにあらず。貯へおけば芽を出す時節到来する娯みあるを以て大切に保存せよ。話は余事にわたりたり。元に復すべし。
 彼の無事を祈る。彼の成功を祈るとか、或は死したる人の冥福を祈るとか、病苦の恢復の速ならんことを祈るとか、一種の世辞言葉の感を抱かしむる傾向あるは遺憾なり。汝等真に祈る資格を具へて人の為、他の為に祈る心を真実より現はして友におくるか。我は然らずと思ふ。人の為に祈らんと云ふ言葉は、たとえその信不信は別として真に嬉しく感ず。されどこの上信仰を究めて祈らんことを我は望まほしく願ふなり。
 祈りとは即ち魄の力にして意魄を霊に帰せしめて、霊より霊に通達する法を祈りと云ふなり。即ち魂魄は汝等が肉体を補佐し、霊は魂魄肉体共に守り居れるに依り、霊は内外共に通ず。
 例へば地球は空間によりて補佐せられ、大気は地球空間を補佐しあるに等し。されば大気は果しなく相通ずると同様に考ふれば、従って祈れば大気大空相合して、共に相寄り相助く事も知らるるならん。従って地球を包含する空間は大気の力に依って堅固に補佐せらるる理も亦明らかとなりしならん。肉体の地球は魂魄の空間に依て保たれ、その全部は霊の大気にて保管せられ居ることもあはせ悟ることも得しならん。此理より推して考ふる時親子兄弟は一個の地球と見做せば、その血族性つながりの絆は空間にして、根元をなせる祖先の霊気に飽和せられて、離れ難き関係となり居ることも従って知ることを得べし。我、先に人間を地球と同様に考へよ。然して宇宙に拡大して考へよと諭しおきたる原理も、是等に依て朧気ながらも感じ来りたるならん。汝等よく推理考察して感応の道理を各方面より判定し自得する法に努力せよ。

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