感応論  祈りて効ありや   第三巻   テツシン貴尊講義

感応論    第三巻   祈りて効ありや その壱   テツシン貴尊講義  2020.12.12


 強き者に勝たんとて弱き者は天祐を祈り求む。果して天の助けありと信じての祈りか。弱きが故に堪え難くして余儀なき助けを求むるや。人は叶はぬ時の神だのみと云ふならば余儀なく頼むならん。信ありて頼む人は少なし。他に加勢あらば天祐は祈らざるべし。信なき祈りは山彦のこだまに等しとは思はざるならん。恰も空家の門に立ちて人をよぶに異ならざるべし。叶はぬ時の神だのみは詮方なく万策尽きてのやり場に困りて神になりとでもと云ふ願ひならん。神の存在の有無に不拘大声に呼ばりなば、誰か我を救ふもの来るやも知れじとあてもなき空だのみにてはあらずや。兎角人間は何者かを求めざれば淋しとて堪え難きものなり。果して祈れば叶へらるるか否かについて我の語る処を聞きて工夫せよ。
 祈りと云へる言葉は意を法(のり)によりて乗するとの文字なるべし。さればこそ此文字は祈れる姿を現はせし象形なりと我は思ふ。即ち己が心を外に放ち居れる姿ならずや。是等より先づ放心法を究め見るも亦一法なるべし。汝等山の上にある人を麓より声をかくれば先方も答ふるならん。呼べば通ず。されど人なければこだまのみ。祈らんとせば相対するものの所在を明瞭ならしめて始めて通ずるは当然なるべし。叶わぬ時の神だのみは盲者が杖を失ひて迷ふよりも尚甚だし。されば何ものか信ずる相手を見つけざるべからず。汝等空しき祈りをなす勿れ。理を究めて信を得て始めて効果顕著となる。
 意即ち意魄は慈悲なり。汝等慈悲心を養ふ心構へをなくして徒らに我身の苦をまぬがれんと祈る勿れ。慈悲とは憐れみとのみ考ふべからず。すべてに対して思ひ遣り深くして我、そのもの様と同化せんと思ふも慈悲なり。愛する心は慈悲の表現にあらざるべからず。すべてに思ひ遣り深ければすべてを愛するに至るべし。可愛さあまって憎悪が百倍の愛にては真の愛にはあらざるなり。汝等の愛には憎みが伴ふ。憎みの伴へる愛は真の愛にあらず。憎まざる愛、即ち表裏なき愛を以てものにあたれば如何なるものと雖も靡(なび)かざるはなし。神の愛は是なるが故に、神を知ると知らざるとに不拘、苦しき時の叶はぬ時の神だのみ心湧き出づるなり。「我ものと思へば軽し傘の雪」とか云へる愛は、愛にあらずして唯情なり。我ものにあらざるものを愛するは慈悲なり。さればこそ慈悲は通る。恰も放てる弓矢の如し。真直にて曲がらざれば貫るなり。我を離れてすべてを愛せよ。そは真の慈悲なり。

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