感応論   霊は如何なる役目を有するか  その弐  テツシン貴尊講義

感応論   霊は如何なる役目を有するか   その弐    テツシン貴尊講義  2020.12.12


 汝等日々心を労し身を労するも此根原に逆上れば即ち霊に帰す。肉体も心もみな霊あるによって働かせらるるを気附かず、肉体の変化するがまま、肉体の変化するがままにまかせ、霊を尋ね求めんとせざるが故に、我は汝等に脱穀の行くべき処を訊きたるなり。汝等は親より出でて親にかへりたり。されば汝の脱穀は何処より来りたるかを考えへよ。即ち汝等は霊より出でたるにあらずや。されば何故霊に帰らんことを願ひ求めざるや。汝等をして我は天国地獄或は極楽に行けよと云ふにはあらず。その本分なる霊に帰れよと教うるなり。されば別段無常を感ずるにも及ぶまじと我は信ず。汝等よくよく思慮分別ありて然るべきなり。
 心魂を働かすも霊の力、意魄を修むるも霊の力あればなり。されば魂魄霊の三体ぬけ去れば肉体は大地の肥料となるにすぎず。魂魄を霊にかへせば霊は是を何処かへ運び去る。その所は霊のよく知る処にして迷ふことなし。霊は如何なる役目を有するかについてはほゞ会得する処ならん。即ち霊は空源力、神通力を知るが故に、魂魄のみにて事の弁ぜざる時は、魂魄に肉体を作りて是を送ることを知るなり。されどもそは実の肉体にあらず。先方の相手方に幻影を見せ或は言葉をも錯覚せしめて相手に言語をおくる法も知れるなり。されば
汝等魂魄のみ働き居るが故に法力を得ることあたはざるも、霊に帰すれば法は学ばずとも霊は知るを以て、法は易々と行ひ得るなり。故に教主は一法を修すれば万法に通ずと宣(のたまう)せられしも、一法を行ひ得る力は一如とならざざれば法は行ひ難し。霊に帰して初めて法力は得らる。然れども霊に帰せざれば法は行はれざるによりて、秘伝の最初に棄執着法を修得せよと説き示めされたるなり。話は聊か枝葉にうつれど易学五行説によれば、水と火は相克するとあり。然るに是を用法によれば相性するなり。
 我、肉体を有せし世界の俗謡によれば―(是を汝等が国の言葉に訳すべし) 

  *未知日記によれば貴尊は二流界下部に生を享けられたとある。以下は二流界の俗謡です。


  わたしゃ水性、あなたは火性
  いつもあなたにあたためられて
  あなたいる時、わたしは熱い
  あなたいなけりゃ、わたしはさむい
  早くかへってあたためて!
 此最後に今一音あれど、汝等が国の言葉に訳し難ければ略す。要はこの劣悪なる歌にも法によりては水火相和する事を知るならん。汝等この俗謡の意味を浅薄に考ふることなかれ。是には智慧すぐれし人にも亦無智蒙昧なる人にも両者に通じて興味深き歌詞なればなり。そは別として相剋する者も法によりては相性となるものにして、用法悪しくば相性も相剋に終ることもあるなり。

 斧、木を切らんとして是に近寄る。木是を見て斧に怨言を放てば、斧曰く、汝、我を怨む勿れ。人、汝を切らしむるなり。されば怨みは人にあらんと。木は又人を恨みしにそは切られて神の社となりて人の尊敬をうく。木は怨みを忘れて感謝せりと云へる道話を汝等も聞きたるならん。
 木と斧とは易より見れば金剋木とて剋せらるるなり。されど方法によっては木の如く怨みも融けて感謝に変らば是即ち相性となる結果となる。汝等はこの理を悟りて常に世の中を渡るならば人に怨み怨まるる事なかるべし。我、斯る話をなせしも他ならず。魂魄は常に相反して融和を欠く。融和を欠くために反射作用は行はれつつあるなり。魂魄一如となさんとせば、此反射作用を逆用して修行せば剋せらるるは却て融和を得る原動力となるによってなり。人に最も害するも亦益するも元を洗へばあづかって反射作用によること極めて多し。此反射作用を巧みに応用する事に依て修行の道も開拓は見らる。されば反射力を巧みに応用すると云ふは如何にせば可ならんかとの結論に至らん。所謂魂が火性と仮定せば魄は水性となる。魂の養ひをうけて魄は不自由なき生活を営む。然るに魂が居なければ魄は飢ゆる故に早く帰って安心を与えて外に行くことを避けよと云ふに至らば、魂魄は完全一体の境地に達せん。 

×

非ログインユーザーとして返信する