感応論   霊は如何なる役目を有するか  その壱  テツシン貴尊講義  2020.12.11

感応論   霊は如何なる役目を有するか   その壱    テツシン貴尊講義


 種は種より出でて種にかへる。四季は春より出でて春にかへる。帰らぬは光陰なり。汝は親より出でて親にかへれり。汝の脱穀は何処にかへるや。土より出でて土にかへるや。はた又肉より出でたれば肉にかへるや。汝は何処より何処に行かんと思ひ居るや。此声を聞きて今更無常を感ずる事もなからん。人界の役目を果して尚無常を感ずる底の修行ならば、今より始めにかへりて行を新にせよ。無常観は今より新に道を求むる人にあるなり。背に負ふ我子の顔を母は振りかへり見る。子は母の顔を見て笑を洩せば、母は安堵の胸を下して又歩みを続く。もし振り返りて子は涙を見すれば立ち止りて不安の顔色を見す。汝等は我、斯る事を語り出さば霊と何の関係ありてかと驚畏の眼をみはるならん。されば汝等此母の心中を察して如何なるかを推理し見よ。振り返る親心にはもし我児に何等変りし事なきやと思ふ心よりの現はれなるべし。然して笑顔によりて事なきを知り歩みを運ぶは我にかへりしなり。然るに子の涙ぐむを見てはその何故なるかの原因をたしかめんとするにて立ち止まりしは無意識なり。ぬけがらなり、心は子に止まりて我には心無ければ脱殻に等し。その脱穀は如何になすかと云へるは我の語らんとする問題なり。汝等明答あらば答へ見よ。汝等は云ふべし。そは寸時なれば彼是論ずるに足らずと。然らばもしその子の原因が判明せざれば彼の母の抜殻は汝等が云へる時間の長きに立ち尽くすやと云はば然にはあらずと答ふならん。
 籾は籾より出でて籾にかへれど、その脱穀の米は人を養ふ糧となりて終る。是は米のみにあらず。他に於ても数種あり。汝の脱殻を何となして終らしめんとなすや。子を負へる母の立ち尽す如く、暫しにても考へに耽らんとなすや。はた又是を前より考へて脱穀のやり場所を決め居れるか。若し未だ定めあらざれば、汝等は植物に対して人間の誇を大声疾呼するあたはざるのみかはづかしめを受くるならん。汝等の脱穀は何に使用するか。肉体は何かの肥料ともならん。されど心意魂魄霊の五気は如何に処理せんと考へ居るや。肉体は脱穀にあらずして糠なり。廃物なり。脱穀は即ち汝なり。汝は何処に行くか。無常を感じて仏いぢりをなさんとするや。キリストを頼みて天国に行かんと願ふや。汝等が望む極楽パラダイスは必ずありとの確信ありや。もしありとせば汝等は何によってかその信を得たるか。釈迦に聞きしか。キリストに導かれしか。然にはあらざるべし。然らば経文聖書は論理正しくして汝等に信を伝へ、其に依って心の底より信を得しか。心の底より信じたらば迷はず行くべし。疑ひあらば信を求めて行くべし。食物となるべきものならば、何を摂取するも腹を充たさば足らん。されど中には好むと厭ふとの区別あるが如く宗教にも好むと好まざるあり。好むものには従って箸を運ぶに等しければなり。我、霊の事を説くにあたり今迄話し来りしは決して横道に入りたるにはあらず。汝等子を負へる母の例を忘るる勿れ。是は感応の論説に際して非常に意義を有するが故にここに注意なしおくなり。斯く語り来りてさて問題にうつるべし。

×

非ログインユーザーとして返信する