感応論    第三巻   思ひやりと云ふ心   テツシン貴尊講義  2020.12.13

感応論    第三巻   思ひやりと云ふ心   テツシン貴尊講義 2020.12.13


 すべて思ひやりの心を生ぜしめよと云ふ言葉なり。思ひやりなき人は修養の苦労を知らざるによりてなり。思ひやりあって始めて祈らんとする心に変じ来る。祈らんとするは愛なり。思ひやりは又愛より現はるると知るべし。愛する心よりおもひやりが生じ、其が嵩じて祈りとなる。汝等すべてにおもひやる心を持たば、すべてを愛する結果となる事に思ひを馳せよ。然らば通ぜずと云ふことなきに至らん。浮きたてる心は、うかべる雲の如く風のまにまに何処へか去れど、思ひやりは筧の水の如くその意の欲する処に到達す。斯くの如く八方に心は赴けども迷ふ事もなく、其々の事情を報告してその始末かたを訴ふ。是に依て魂意魄はその処理にあたるなり。思ひやりも同情と混同する勿れ。思ひやりはすべてに通じ同情はその趣きを異にす。もとより思ひやり嵩じて同情に変化することあるも、ここに至らば心の役目の範囲を超えたるなり。心は唯己の分限を超ゆることなく思ひやりにて可なるなり。既に同情なるは魂の分野に属す。汝等が同情と思ふ事は情なるべし。情は思ひすごしにして思ひやりにはあらず。汝等は今日迄の情の心は、即ち偏頗にして一方的なりしなり。されど修行を重ねたる今日に於ては彼と是とに同情を与ふるに依て偏頗とはならざるべし。そは心(しん)魂(こん)が意魄と共に情を与ふるに依て、結果は正しくせらるる故なり。修養せる心は八方に広く馳せ廻るもあやまたずば凡ては服従す。思ひ過しは心に苦痛を与ふ。されば心には思ひやりの程度に止めて思いすごさす事勿れ。思ひやりは放心なるに依て現はるる現象なり。放心なし居るが故に思ひやりは生ずるにて、肉体の内に閉ぢこめられて世間知らずには思ひ遣りのあるべき道理なかるべし。されば心は自由に任せて旅をなさしむべし。可愛い子には旅をさせよの比喩にあらずや。思ひすごしは心の病となる。病らはさぬよう思ひ遣りに止むべし。然らば汝等は思ふならん。思ひすごしは如何なる事より生ずるやと。是について少しく説明すべし。
 汝等道を行く時、人ありて病苦になやむを見し時、如何にかして救ひやりたしと思ふ心迄は思ひ遣りの領域にして、さて如何にせば救はるべきやと考えにうつるは、魂魄の領域に移りしなり。然して近き医者に駆けつくる等の処置に出づれば談合の結果と思はば可なり。然れば思ひすごしとは如何にと云ふに、病人を見て不憫なりとて唯なすことも無く、己の心のみおろおろなし居るは、魂魄に告げざるに依て己の分限を超えて魂魄の領土を犯す結果、肉体に却て報告もせず苦み居るを以て、肉体迄が身に粟を生ずるに至るなり。心は思ひ遣りの程度より先に進ましめず、直ちに報告せしむるを要すなり。思ひすごしは執着にして、行法に於ても棄執着を説かせられたるたる教主の言葉によるも明白にして悪しきなり。是には仏教に於て執置煩悩とて忌み居るを見るも明白なるべし。棄執着とは即ち此分野を超ゆる事なきを云ふなり。思ひ遣りより思ひすぎに至らば、既に分度を出でたるに依て即ち執着となる。故に思ひ遣りにて止めなば、棄執着は行はれつつある事を知らば是に順じて工夫すべきなり。さりながらここに心得べきことあり。
 其は執着と長案との区別にして長案工夫は、執置にあらずして是は奨励する法なり。執置とはすぎ去りし事に未練を残す等の類なり。例えば「葬礼すんでの医者ばなし」の如く、何日迄もかへらぬ事を考ふる如きは執置なれども、もし今後斯る不幸を繰り返へすなきよう考慮するは執着にはあらずと知るべし。思ひやりは執置にあらねど、思ひすごしは執置なるに異ならず。されば是等の道理を明らめて執着をとる研究の参考となさば可ならん。心意は解放されて己が天分をもり育て、魂魄も自由を与えられて己が本分に従い、霊はその宿れる人の使命を全うせしむる事を得て、完全なる人格はここに始めて完成す。従来我欲するまま肉体に囚はれありしが、魂魄より解放せらるる修行を獲得したればこそ、ここに始めて解放の喜びを見るに至れり。故に心は己の解放に甘んじて思ひすごしの如き執置に囚はれなば、又も執置の絆に縛せらるる浮目を見るに至らん。怖ろしき事にこそ。

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