感応論   放心と放魂と放念の区別とその鑑定法 その弐  テツシン貴尊講義

感応論   放心と放魂と放念の区別とその鑑定法 その弐  テツシン貴尊講義    2020.12.11. 


放心とは唯心に使ひを命じて派遣せし社員の如く、放魂は支配人に出張を命じたると同様にして、放念とはその要件について専門家を遣はしたると観察して可なり。されば此事柄に対して社員にて事足る事もあり、或は支配人にあらざれば達せざる場合もあらん。又専門家を煩はさざればならぬ事もあり。社長自ら出馬せざるべからざる事もあるならん。そは機に応じ変に応ぜざるべからず。心魂念にありても同様と知るべし。
 我斯く語らば汝等は云はん。意味は諒解したれどそは机上の空論にして事実行ひ得るとは信じ難しと。一応尤もなり。されど我、汝等に告ぐるに、成功難き行ひを百千言して何の益かあらん。空しき空論のみ。汝等を迷はさばその罪や大なり。よく聴け。汝等迷はず、疑はず暫し耳を傾けよ。汝等放心と云へば心を肉体より離れしめて、肉体の眼にて見るが如く様々の風景を見ながら、飛行機に乗りて空中をかけ廻るを連想なすが故に疑ひを醸し出すなり。放心とは斯るものにあらざる事を先づ考慮に入れよ。
 例えば汝等遠く離れし恋人に会はんとする時、身よりも心が先だつと云ふにあらずや。是即ち放心なり。思ひを馳せてと云ふも放心なりと知るべし。放心とは難しきにはあらざるなり。親は街路に遊ぶ我子の泣声を聞かば、心を先に馳せて後肉体を運ぶ。是放心なり。斯る例を考ふれば尽じ。汝等は軽きことを重視し、重きことを軽視するが故に、簡単なる処に真理あるを見逃すこと多し。灯台下暗しの例ならんか。兎角人は前方に心奪はれて脚下を省顧ぜるは宜しからず。
 法を聞けば極めて平凡なること多し。然れどもその平凡なる結果には重大なる意義を有するものなれば決して軽視すべからず。放心と云へば法に於て唯親は街路に泣く我児に心を遣る如くすれば、是にて放心の法は成功したりと聞かば、汝等は是を聞きて呆然たるべし。是軽視の眼なり。法は難しきものと考へ居りしに、余りに平凡なりしかば不愉快の心に変じたる結果軽視するに至るなり。泣く子の声に応じて心は行きて直ぐに引き返して、親に早く行けよと語る時間は極めて早し。僅少秒を出でざるなり。心の使ひは斯くも早きにより汝等は放心の法なりとは気附かざるなり。空間には距離なし。心は千里を遠しとは思はざるなり。
昔電送機のなかりし頃の人に数千里はなれし人の声なりと云ふとも、是を信ずるあたはざる如く、汝の心は幾多の距離をはなるるとも隣家の人と語るに等しと云ふも信ずるあたはざらん。一方は機械に依れど、人間同志には機械なければ聞く能はずと思ふも当然なれども、機械を造り出せしも原理ありての証明ならん。然らばその原理を肉体の機械にうつしその原理に基きて人の心と心が、相互に通話すれば表面に現出せずとも、潜在して秘密通信の得らるると知るべし。
 深山幽谷にある行者達が常に遠方の行者と相互間に通信をなし居るも此原理によるなり。たとひ巧妙なる機械と雖も波長合はざれば通ぜず。又電話も完全に接続せざれば要は便ぜざるべし。人間の心と心の報道に於ても亦同様の現象によると知るべし。故に機械は表面に現はれて明瞭なれど、心話は潜在して是も亦明瞭なり。此無言の通信を強く働かすには真ならざるべからず。真ならしむるには心魂合して念を強くするは法なり。我、今真と云ひたるは誠実の真にてはあらず。即ち真直の意味と知るべし。心は真直にして他にうつす事なければ其れにて可なり。心を運ばせて又次に魂を送る。是に対しては余事を考へなば心も魂も念も迷ふ。されば気光素も迷ふ。

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