感応論   第三巻   放心の原理その2   テツシン貴尊講義  2020.12.09

感応論   第三巻   放心とは如何なる事か   テツシン貴尊講義  2020.12.09


 汝等はいささか原理の大意を聞きて少しく諒解なせりと思ふ。されど未だ放心とは如何なる行をなし、又如何なる為になすを要するかとの疑問は生ずるならん。放心とは読んで文字の如く放つ心、即ち前にも述べたる如く心を解放、自由ならしむるのみならず放電して遠近の重要なる事柄を知りもし且つ知らせもなさん為の方法なり。汝等は常に他人と膝を交じへずば意志を通ずることあたはず。されば遠方の人と語らんとせば電報電話の力をからざるべからず。斯る不便なる事多かるべし。然して人間相互間には斯る機械の便はあり雖も、霊界にありては何を以てその用を弁ずる事を得るやに思ひ廻らせよ。即ち放心法に依らざれば通ずる事あたはざるべし。故に是等の法を修むるは単に一種の芸術の如き感を抱きて学ぶことを避けて、心の自由を得んことのために修行することに信をおかざるべからず。放心に依りて霊の威徳を知り、然して神の偉大さを覚らんことを心掛けて修行せざるべからず。心治まらざれば身も亦安からず。身おさまりて心穏かとなるは周知の事実ならずや。されば汝等放心の法に従ひて身もおさまり、他人をも誘導して危きを救ひて安からしめんことを計るべし。我のみ救はれてよしと思ふは利己心なれば慎まざるべからず。
 一種の興味に誘はれて斯る法を修得せんと計るは心を玩具となすに等し。心は玩具にはあらざるべし。汝等は常に絶間なく道を修むるに熱し居ればこそ、斯る現象は自らなし得らるる境地にすすみたるにて、学ばんとして得られたるにはあらず。旅する人の何日かは通る風景の眺めに異ならざるなり。一飛びに行き得るものにあらず。是を眺めんとせば写真によりて見る他かなかるべし。写真と実際は相似て等しからざるべし。唯斯るものかと真を知るに由なし。故に真を得んとせば即ち道を歩みてその地点に到達せざさればその風景を味ふこと難し。放心の法に於ても平心の風景及び鏡心の眺めを経ざれば、放心の駅に到達するを得ざるなり。何も知らざる人、是を写真に見るも何の益かあらん。幼稚園に学べる幼児に高等の学問を説くに等し。誰かの句に「極楽に行かせ給へと願はねば、地獄におつるうれひさへなし」と詠めるを聞きたり。真に興味深き句なり。極楽を望むは地獄を怖るるなり。是心を二ならしむるなり。即ち二心なり。二心なるが故に心の自由を阻害さるるなり。地獄と云ひ極楽と云ひ束縛に縛はらるるなればなり。是等の束縛からのがれて始めて自由となる。是等も放心なり。汝等の思ふ我身より心はぬけ出でて虚空を浮遊すると云へることも亦放心なり。そは自由なり。行かんとせば止まる勿れ。止まらんとせば止むべし。強いて遣はすにも及ぶまじ。汝等にして疑ひの心を起こさずば、今迄我が説きし言葉に依て見ざるものを見、且つ聞かざりし事を聞きたるにてはあらざるか。我斯ることを語るは何故ぞ。汝等の見聞の意志は未だ明白ならざるを以てなり。汝等はややもすれば未だ肉眼肉耳を忘れずして、見聞の意味を誤解しあるを以て、斯くは注意して覚醒せしむるなり。我、是より説かんとなす放心について、斯る誤解を生ぜしめんことを怖るればなり。
 心には肉眼の如きもの或は肉耳の如きものあらざれば、見る聞くに対しては必らず肉眼肉耳を連想して考ふること勿れ。此見かた聞かたを肉眼肉耳に受くると同様に考ふれば其は得る所なくして害をなすと知るべし。何となれば誤解より迷信に入りて幻影を擬音を見聞して、却て錯覚に陥る憂あればなり。この見かた聞かたは肉体に受くると異なり、姿もなく声もあらず。然るによくその事柄は明瞭に知らるるなり。

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