感応論   第三巻   放心の巻   テツシン貴尊講義  2020.12.08

感応論   第三巻    放心の巻      テツシン貴尊講義    


 人間の魂火は自由自在に出入りすべき器用なる行ひをなし得るものかと云ふ問題については、ここに暫くその論説を避け、放心と云ふ論旨を進めんとす。汝等放心と云へる事につきての考へは如何なるものなるやを知るや。放心とは他ならず。心を自由ならしむると云ふ一語に止るなり。心に自由を与ゆとは如何なるためになさしむるやとの反問を生ずるならん。即ち汝等は常に心の自由を束縛しつつあるなり。何となればあれをなすは悪し、是をすべからずとて心のままになすを許さざるなり。是即ち心をいましめの縄にて縛り居る故なり。されば何事も心に任せざるが為に心は常に不平不満の日を送るなり。心に自由を与えてその欲する儘に行動せしめなば、我儘気儘にはならざるかとの疑念も生ずるならん。然れども修養せざる者の心と、修行のつみたる者との心の相違は雲泥の差ある事と知るべし。今日迄の汝等ならば恰も小児の如く親の監督なくしては様々の過失を醸すなれども、今高等の教育を受けて思慮分別整いたれば何処に到るも誤を犯すことなからん。されば今日より世に処して実地の修養をなすべしとて、親の監督は解かれたる如く心に自由を与ゆるのみならず、心は今日より会社或は店員役員の如く任務をなす身となれるなり。即ち就職なして是より今迄鍛へたる腕の冴えを試めさんとするに等し。是即ち放心と云ふなり。
 又今迄親の手許を離れず、箱入り娘の如く腹の中に押し込めて世間知らずの不自由を与へたるを解放して、是より浮世の荒波にもまれしむる修行をなさしめんとするなれば、親としては背後にありてその苦労も容易の事にはあらざるべし。されど何日迄捨ておくことは許されざるべければ、ここに放心の大切なる行をなさしめざるべからず。心の自由を許して働かしむる境地に到りたる汝等の今日あるは感謝せざるべからず。何処に心が到るとも盗みもせず争ひもなさざれば安全此上もなからん。心は何処に到るとも既に整ひたる我身は安全なり。
 例えば会社は既に設立全くなりて外交員か如何なる注文を受けあひ帰るとも、是に応ずるは易きが如く、心を何処に遣はすとも其任を果すことを得るなり。自由を許されし心の活躍は命じられし事はもとより、又時には自ら臨機応変の処置に出づる事もあるなり。斯く自在の活躍なし得らるるは魂魄一如の姿より育成せられたればこそ、斯く立派なる働きをなすに至りたるなり。従来肉体の慾求に囚はれて自由を妨げられありし心も、今はその憂ひなければ出入りもきはめて安らかとなり居るを以て、何の妨げもなく行ひ得らるるなり。放心と云ふは放任をも意味す。故に放任せられたる心は行かんと思はば距離の遠近を問はず行き、止らんと欲せば止る。汝等今日迄斯ることのあるを夢にも予期せることなかりしならん。然るに斯くありと聞きしことによりて今更新らしき驚きを覚ゆるならん。

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