感応論   第二巻   平面鏡と立体鏡 其五   テツシン貴尊講義

感応論   第二巻  三鏡一体の力は無限    テツシン貴尊講義     日本の為政者へ


 三鏡一体となりて円満なしなば此処に始めて真の人間となりたるなり。人間と生れて人間を知らずして終るは真に悲むべき限りならずや。我、汝等をして真の人間の有難味を覚えしめんことを欲して、慈音を促して、拙劣ながらも筆を執らしむ。慈音は弱き者なり。さればこの弱き不具者にすら教ゆれば人間の道を知ることを得と云ふ証拠を残し示めしたるなり。まして汝等は不具にもあらず、智慧も具はり身も整いて人間の妙味も味はひ得られずと云ふことあらんや。成るものをなさざれば永久の苦はまぬがれざるべし。早く修養修得して悟り、道の達成を計らんことを願ふなり。
 三鏡一体となりたる時、所謂生れかはりたる如き気分となる。然れども肉体には何等変化はなし。世の中の人は修行し徳をつめば肉体に威厳そなはり神の如く、犯すべからざる姿となる如く覚ゆれども決して然らず。唯気光素の働きに依て云ひ知れぬ人格そなうるは事実なり。
 三鏡一体となりたる時は何とも計り知れぬ喜びともつかず、又楽しともつかぬ特別の歓喜に充たさるるを覚ゆるなり。然れども昂奮状態にてはあらず。唯何となく浮きたちて、何かなしたき感じとなり、静かに座し居るは勿体なしとの感を深くす。斯る結果とならば身体の病苦などは、何れかへ退散して影だに止めざるなり。さればすべての事柄は小気味よく運ばれその計画は誤なく達成するを以て能率は益々増大の道を進む。人との交はりも厚くして我を信頼し来るは当然なり。日々是好日年々是好年なれば即ち明朗活達なり。活達なれば憂ひ悲み怒り腹立つこともなし。怒り悲みは我の無智と物に偏る結果なれど、霊光には斯る偏頗なければいささかも斯る事あるべからず。問へば忽ち答へ頼めば忽ち叶ふ。

 三鏡に映じ来るは過去現在未来迄明瞭に映り居る故に何事も解せららざるものなく、空源力の働きが増大するに従って、是に対抗する妙案も自ら湧き出づるなり。三鏡一体となるによって智仁勇の徳は現はれ弱きを救ひ悪は亡ぼされて平和は得らる。即ち智慧に依て善悪邪正は明白に審かれ、仁に依てあまねく統括され勇に依て悪者は亡ぼさる。斯く語らば汝等は如何にも大袈裟の事を云ふものかなと思ふならん。されば小さく語るべし。先づ汝等個人々々について語り見ん。汝等の家庭は今四六時中平和なりしか。然るにはあらざるべし。然るに汝等にして一体の境地に達しなば智慧の徳にて平和は保たれ、仁に依て家族は恵まれ、勇に依て争ひは静止さる。されば小さくは一家、大きくは一国に及ぶは当然にして敢て大袈裟にはあらざるべし。されば汝等は此有難き霊光を速かにたづねて早く対面の日の近からんことを我は祈るなり。
 三鏡一体となりて始めて迷ひは去る。迷はぬ道に立ち入らば先見は明らかなり。智慧の光明は明るく暗きを照らす。故に顛落することなし。仁の徳は人を導く故に自他共に幸なり。勇は悪魔を怖れず。故に安全なり。智慧を霊と仮定し、仁を魄と見做し、魂を勇と考ふれば、智仁勇の支配者と判定することを得るなり。されば仁も勇も帰する処は智慧なるべし。智慧は無法者を避け或は是を程よく済度す。如何に無法者無智者も仁にむくる刃も腕力もなし。故に智慧は無法無智なる者には仁を以て対ふなり。又仁にて及ばざれば勇を以て是を征服す。

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