感応論   第二巻   平面鏡と立体鏡 其五       テツシン貴尊講述 2020.12.06

感応論   第二巻   平面鏡と立体鏡 其五   テツシン貴尊講義


 肉体の眼に映ずる姿は、霊の他信ずる勿れ。たとえその理は正しくとも大概は幻影なるべし。魂魄完全に接続して霊の働きとなる時は、即ち汝等が云ふT.Vの如く真を現はす故に、此力を有する修行者の言は信をおくに足る。然れども稀には天分を有するもあるべけれど、我の見る処多くは信ずるに足るものはあらず。魂のみの眼と魄のみの眼の人のみなり。
魂或魄より肉眼に映ずるものに信をおくならば此修行は容易なり。唯自己催眠法を修得せば何人も行ひ得らるるなり。自己催眠法を行ひ得ざる人は、他を他をたのみて一度催眠術を受くれば可なり。然れども斯る事は前述の如く有害無益なる事は論を要せじ。魂魄霊の三鏡一体となりたる光の鏡、所謂仏教の説く光明を映すことを得ば完全なる眼は開らかる。即ち汝の霊光は汝の心魂魄意を照すを以て、汝の日常生活は明るし。此様を仏教にては安心結定と説くなり。
 音は耳、光は眼なれども、気は何より来るかは次の論旨によるなり。汝等は体験せる事に気にかかると云へる言葉を耳にす。即ち気とは是なり。是が来る処には根拠あらんも、受くる処は何処如何なる処に現はれ来るかについて観察を下さしめよ。耳か眼か鼻か然らざるべし。然らば何処より受くるや。是には二種あり。直ちに肉体に感ずると、肉体神経に感受するとの姿なり。汝等人と約を結びて是を果す迄は、気はのこりて何となく異様の感に打たるるならん。果せばぬぐうが如く消滅すれども、果さざれば尚不快の気残り、約せし人に陳謝して諒解を得ざれば消ゆることなかるべし。
 此気と云へるはもとより魄に属するは前述の如くなるが、是等は約束と云へる根拠あるに依てさのみ感ぜざるも、若し風もなく動揺もなきに神棚の花立など顛落等のことありて、急に胸さわぎを覚ゆるあらば汝等は気にかからざるや。然して何か我家に不吉の知らせならざるかと、何をなし居りても其が何かの事故ある迄消ゆることなかるべし。此気にかかるはもとより魄にかかるなり。迷信多き人は一も二も気にかかるなり。また偶然胸騒ぎを感ずることありて、気を煩はす等のこともあり。故に魄に感ずる事の多くは、肉体神経より感ずると云へる事も察せらるるならん。又身体強健ならざる人、もしくは神経過敏なる性質の人等は、気にかかることの多きを見るに徴しても明白に知ることを得ん。病人の気にかかるは病ならんも、さて健かなる人の気にかかる意味について、我、汝等に語らんとす。たとえばその原因の如何を論ぜず、唯気にかかると云へる様なり。此気のために精神の妨げらるる事の多くして、其解決の時間長ければ長き程その度は増し行く結果、陰鬱なる日は続き精神は全く破らる。

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