感応論   第二巻   平面鏡と立体鏡 其四       テツシン貴尊講述 2020.12.06

感応論   第二巻   平面鏡と立体鏡 其三       テツシン貴尊講述 2020.12.06


  肉体より来るものに三種ありて、一は心意に依る現象、二は魂に、三は魄に現はるる現象にして、低級の人は魂の受くる現象なるが故に、上下左右に身をふるはせ異様の姿を呈す。然れども智識者は心意に現はるる故、唯身を軽くふるはすれば、其によりて無識か或は有識かの区別は知らるるなり。斯る現象を見て多くの人は霊感なりと信じ、又当人も斯くと信じ居れるなり。世に此思ひは一種の暗示となりて自己催眠より訳もなき錯覚を生じ、是が嵩じて遂に狂人となることあり、注意せざるべからず。故に此理由をたしかめおきて、過失をひき起こさぬよう用心肝要なり。霊感とは斯る劣弱なるものにあらず。是等の現象は心意と神経の結合性より来るにすぎざるなり。精神統一の方法はあやまてば斯くの如き有様を呈する結果となるに依て、修行者は指導者の選択を必要とす。眼に映る印象、耳による印象、鼻による印象、神経に感ずる印象、魂魄霊の三鏡一体より生ずるにあらざれば真ならず。唯魂のみ魄のみ、個々の働きによる印象は前述の如き誤認となる故に、正しと信じても結果は正しからざること多きは是なり。されば耳に現はるる個性の人は、眼をたよらず、眼に映る人は耳にたよらず、神経に通ふ人は眼耳をたよらず行ずるも可なり。
 よく耳にする精神統一なる言葉を聞きて、此ひとの統一せしと云へる姿を見るに、そは統一にあらずして統休なるもあり、又魂一のみに、魄一のみに、心一のみに偏りたる多し。わけて熟睡せる如く云ひふらせるものの多くは統休なるがきはめて多し。まこと統一せる人は平素の姿と何等異なる処なければ、其人が統一なし居るかなし居らざるかを鑑別する事あたはず。是に反しあやまれる統一者は仮死状態の如く見ゆるもあれば、いねむり居る如く見ゆるもあり。又平素とは異なりて顔色変じ身をふるは等々多けれども、みな真実ならざるなり。
 是等の行法は肉体に拘泥して心意を単に圧迫なしつつあるに依て達成せざるなり。無念無想と称すれども、心身を労するのみにて効果は得られじ。故に心身を悩ますことなく一層深きに潜在しつつある魂魄を喚起する方法を工夫すべし。
 我、前に述べたる肉体の眼、肉体の耳にあらず。魂魄の耳眼によるべしと説きたり。汝等は統一せんとして肉体の眼をふさぎ、肉体の耳を苦めざるようにせよ。されば肉体の眼はおだやかに開らき、耳はすませ、口は結び鼻は静かに呼吸は軽く、平常の態度と異なることなく、肩を柔らげ胸を張り、腹は無理なく力をこめず、手は膝に柔らかに組む。此組みかたは母指と次指と合せ、是は左右共に同様にす。然して一方何れか合はせたる輪の内に合はす時、恰も輪と輪とつながれる形の如くなすべし。その母指と次指の爪先を双方の掌の中心に接触せしめ、残りの三指と三指とは重ねて組み合はすべし。唯三指の上に三指をのすればよし。この母指と母指との交叉せる山形の所を下腹部に接近せしむれば、即ちその位置は丹田にあたる。此処に気をおちつけて端座するは正しき法なり。

 座禅も可なり。然れども汝等の国人は平素の座法を新ならしむることは、前述の如く今より座禅せんとの心となりて宜しからず。故に平素の座法そのままなるは可ならん。斯くて静かに魂魄の耳眼神経の動きを見居らば、肉体はおちつき来るを覚ゆ。是静座の要訣なり。 

×

非ログインユーザーとして返信する