感応論   第二巻   平面鏡と立体鏡 其三       テツシン貴尊講述 2020.12.05

感応論   第二巻   鏡心法    音の鏡、光の鏡、気の鏡    テツシン貴尊講述
2020.12.05


 音の鏡と云ふは即ち耳より受くる現象なることは誰も知る処ならん。されば耳の鏡即ち耳鏡の受くる有様はいかなるものかと云ふに、汝等は唯音楽及び言葉ならんと思ふならん。音楽及び言葉は云ふ迄もなく耳より伝はるを以て耳鏡を要す。音楽及び言葉は肉耳に対して直接映ずれども、無の音、無の声は何によりて伝ふかを考へ見よ。肉耳にては更に聞き得ざるならん。
 例えば世の中が戦争の為、人間の声がたかまり騒々しくなりたりと雖も、肉耳には平素といささかも変りし処なかるべし。是を聴き得るは魂魄の耳ならん。我の語るは肉耳の鏡にてはあらず。即ち魂魄の耳鏡、霊の耳鏡を語らんとするなり。肉耳には制限あれども魂魄霊の三鏡には限度ある事なし。故に範囲きはめて広く、且つ無限なり。されど是等を統括して推理せば理解することを得ん。
 光体も波なり。気体も波なり。音は論を要せず。波なるが故に動く。動けば響くなり。響きとは即ち音に帰すと云ふとも敢て過言にあらざるべく、又こじつけにもあらざるべし。汝等に我命じて肉体全体を耳とせよと言はば、汝等はそは無理難題なりと考ふるや。或はさては然るやと考ふるや。汝等の中には無理なりと云ふもあらん。又感心共鳴するもあらん。何れにても論議を進めなば会得すべし。大概人間の個性には聴覚顕著なると、視力著しきと触覚勝れたると臭覚味覚の勝れたるありて、すべて一様ならざるなり。故に観念力に於ても亦その分に応じて一様ならず。されば耳より来るあり。神経より来るあり。耳より来るは声にあらはれ、眼より来るは幻影より現はれ、神経より来るは気より現はるるなり。斯る理由を知らずして、すべて眼より来るものと思ひて如何に修行すとも、何物をも見るあたはざれば我罪業の深きが故に、修行は望み難しとて行半途にして放棄する人は多し。故に是等の個性を早く指導者は見出して是を引きあぐる法を教へなば、何人も成就疑いなきなり。是等の事柄について指導者の心得べきは、先づ人格の鑑別を第一に知ること肝要なり。即ち智識の程度を見きはめ低き人には眼を先にし、是が何等の影響なければ耳に努力せば可ならん。さりながら程度高くして神経過敏なれば、大抵眼に依て成功すると知らば可ならん。又程度高くとも神経過敏なる婦女子には大概眼より来る人多し。学才勝れ人の中には耳より来ること多し。是等は指導なし居るうち自ら諒解するを得べし。又無智蒙昧なる人の多くは肉体より来るなり。たまたま智識階級の中にもこの現象を見ることあり。されど低級者とはややその状態を異にするを以て、判別するはきはめて容易なり。

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