感応論   第二巻   鏡心法    続き    テツシン貴尊講述 2020.12.04

感応論   第二巻   鏡心法    続き    テツシン貴尊講述
2020.12.04



 霊魂の鏡


 さて霊に対する説明をなす前に、いささか説きおくことあり。是は他ならず。汝等は霊と云はば直ちに何か特別なる考へを催して、魂魄の他に特殊の姿を聯想するならんと、我は感ずる依て霊なるものについて少しく説明せんとす。
 先づ是を簡単に説明すれば、魂魄を望遠鏡となさば、霊は是を見る眼に相当す。故に如何に精巧なる望遠鏡なりとも、盲人には何の用もなさざる如く、魂魄のみ如何に賢明なりとも霊なくんば何等得る処なかるべきは論を要せざるなり。我、屡々汝等に語りし如く、汝等は常に親を背後になし居るとさとせるもこの理なり。汝等は常に望遠鏡を分解して大小を交々眼にあて居るに依り判定に変化を与へ居ることに気づくべし。されば霊は純潔なるにより大を大とし、小を小とするは当然なり。然して霊は空源力を知るに依てこの働きに於て大には大、小には小のその分に従ひて力を与え居る事と知るべし。されば望遠鏡は完全に組み立てて、眼に与へて始めて三つの力現はる。されど唯見ゆると云ふには完全ならざるを以て、分度を調節し距離を計り、又その物の位置などを計算せざるべからず。此計算こそは完全に三つが一つなりて始めて現はるる空源力と知るべし。是即ち四線の法則に合ひたる事も覚知せしならん。
 霊の鏡は立体鏡にして魂魄の鏡は其々平面鏡なりと考へて考案工夫せよ。霊は先づ大要かくの如きにして、魂魄を正しくして始めて真の光を現はすなり。
 魂魄は夫婦或は兄弟の如し。夫は妻を虐げて親に妻の非を語りて行動を共にせざれば、親は余儀なく夫につく。故に家庭は混乱するに至る。妻に於ても夫と同様の行ひあれば又然るべし。魂魄の夫婦一体となりて親に仕へなば、家庭は円満にして栄ゆるは明白ならん。霊は純潔なれば一方に偏り働かすことを避けざるべからず。是を正しくせんとならば、魂魄一如の工夫より他に道はなからん。我、汝等に親を求めよ。親に相談せよ。始めは正しき回答は得られざるも。日々怠らずなし居るや。汝等は此理由を知らざるが故に、一種の娯楽的法とも思ひ居るならん。又何となく物足りぬ観念より行ひ難きもあらん。されどこの法には次の如き理由あるなり。
 汝等日常使用する電気には陰電陽電の合するより生じ居ることはよく知る処なるべし。即ち魂は陽電にて、魄は陰電と仮定して考へ見よ。然る時は親を求むる法によりて合点するならん。即ち始めの間は魂の陽電と魄の陰電とを接続せしむる方法にして、是を完全に結びつけるに於て始めて真の発電を見るに至るなり。故に霊は電気にして、魂は陽電、魄は陰電の如しと考へて修行するも可ならん。霊は数学の零と思へば陰にも現はれ、又陽にも現はる。その陰陽完全に融和して始めて此威力を発揮す。我、汝等に説きし如く親を背後になすと云ひしは是なり。汝等は魂魄を融和せず、勝手の行動をなす故に、親の威力をもわきまへざるなり。自問自答は即ち融和をなさしむる方法なる事とわきまへて行をおろそかにせず、魂魄に気力をこめて霊の力を仰ぐべし。
 霊についての予備知識を得たらば、霊の鏡とは如何なるかと云ふに対して歩を 進めん。魂魄の鏡は平面にして、霊の鏡は立体なりと説きたる如く、霊の面に映り来るものすべて立体となりて映じ来る故に、誤解誤認等のある事なし。立体なるが故に上下は云ふも更なり。前後左右何れよりなすとも決して犯さるる憂ひなし。悪人来りて我を欺かんと計るとも、犯す事を得ざるはもとより却て彼を責め、前非を悔ゆらすに至らん。又改心を得せしめて、善導に導きうつす結果も見らるるならん。霊の鏡には来らんと計るあらば、すべての事柄全体が映じて誤なければ、一目瞭然たり。さればその結果を映すに依りて是を度する法も明瞭なれば、労苦を要せず処理する事を得。世に伝ふる天願通及び千里眼など云へるは霊の鏡なり。霊には斯る験ある事には驚くに足らざるなり。されど世には感違ひなして魂魄何れかに映りたるを、千里眼などと不審するもの多し。魂魄は平面鏡なるが故に、天眼地眼或は千里眼などにてはあらざるなり。魂を空になしたる時、魄を休養せしめたる時、映じ来ることあり。又魂魄を空ならしめん時にも映ずる天眼地眼と誤認するを屡々見る。是等は錯覚と同様の現象して、天眼地眼にはあらず。即ち魂魄の電気を巧みに接続して霊の電気を働かしめ、映じ来る現象にあらざれば真の天地眼とはなり難し。目連は天地眼を得て空間に細菌あるを知りて、釈迦に殺生戒を破ると訊きし時、釈迦は斯る事は肉眼を用いよと誡めしと云ふも、此霊を現はさずして、魂鏡或は魄鏡に帰せよとの教へなり。されば霊の力は正しくしてあやまたざるは空源力神通力を得たる所以なりと知るべし。 

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