感応論 第二の巻   テツシン貴尊講義   鏡心の巻その一

感応論第二巻  鏡心の巻    テツシン貴尊講義
2020.12.01


 水も固まりては氷となりてさらさらと流れず、停滞す。鏡心は氷の如くにては活達自由を失して自在の行ひを得るあたはず。故に自由のうちに自由を求めざるべからず。さればすべてのものを、すべてに応用して一方に偏せざる底の修養を要するなり。学者は学に囚はるるなく、朝の洗面も食事も衣服に至る迄みな学問と心得ての修養せば真の学徳は現はるるなり。ここに工夫の注意を要す。一考すべし。我、斯く語らば汝等は修養には凝らずとも成就になり得るかと云ふならん。そは誤解なり。物にこだはる勿れと云ふにて、熱中せざれば成功なり難きは当然なり。
 例へば平心を得んとて終日静座し居りては己が業をなす事あたはざるべし。是等を一方に偏す云ふなり。一日の業務を平心として行はば偏ることなし。前回に述べたる老猫の如く、我は猫にして虎にあらずとの精神ならば鼠を補るは手柄にあらずして、己の天分を全うしたるなり。是即ち平心なり。鏡心とは隣家の猫の如き境地を例にす。所謂真の人となれるを云ふ。我は猫なりと思ふは未だ猫と云ふ心より脱せざれども、猫と云ふ境涯を脱して始めて真の猫となる事を得るなり。鏡心を得ば始めて真の人とならん。人は斯くの如し。されどそは得る事きはめて易からず、困難なり。故に理を究めて始めて実行に移さざるべからず。理を知らば己の心に合ふべき法も、工夫に依て新らしき道も共に開らかるる事を得ん。されど是には時間と労力を要す。故に古来より汝等が祖先の聖者達が苦心になる伝統の遺跡を順歩するも可なるべし。されど是にも往々にしてあやまてるものも僅少からねば心せざるべからず。我の教へし親を求むる方法こそは安全にして迷ひなく、多少時間は遅滞を見るも成功は必至なる事確実なり。鏡心法の行とは是なり。
 汝等神の社に詣で、又仏壇に対ふ時、合掌し瞑目するにはあらずや。是は外を拝するに似て、実は内を拝し居る事も知らるるならん。この心この行為、是親を求むる姿なり。恵まれたる汝等は人体には他の動物にはたえてあらざる親を持ちながら、其影だに知らずして滅後に於て始めて知る如きは何と云ふ勿体なき事なるか。甚だしきに至っては滅後に至っても知ることなく終るものさへあるは遺憾の極みならずや、今生の未だすぎざる間に、早く急ぎ拝顔の喜悦を得よ。自問自答するなどと愚も亦甚だしなどとて行はずば、終生の悔を残さん。愚に似て賢なる行ひぞかし。
 鶴亀の使者の例に依ても合点さるるなるべし。道の近き鶴の国人は急ぎて鶴に乗りて馳せ至り、却て滅亡速かならしめ、亀の国人は安全なる法にて遅るる如く見ゆれど却て成功を速ならしむ。是については後に詳細語るべき問題あれども、例は先づ斯くの如きなり。

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