こだま会講演日記    第九十三回   坂本通博 筆記


三月十五日


人間には魂があるから、すべてのものを育てたり又種々と工夫するする力あり。
之は魂なくしては発明工夫は出来ない。
同じ魂をもっていながら皆それぞれ魂の程度がちがっている。之をそれそれの人の持つ個性と言ふ。
魂の種類も種々様々あり。皆その魂を働かせるのは、その天分つまり与へられた個性をもととして育てて行く。之が人間の道。
心の力は大抵決まって居る。皆同じだが魂がちがふ。釈迦、キリストもあれば無知蒙昧もある。之は天分のちがひ。人間の心持は尺度の決まったもの。
大学者でも魂の力が劣って居れば唯の物識りで終る。(之心丈の働き)
学問なくして大きな発明をする人あり。之は天分、個性のちがひ。
たましひから心に伝へて大きな働きをなす。子を育てるには先ず天分を見付けてやることが大事。臆病なひと。之は育て方にもよるが元来のたましひの置き方をちがへて居るからである。之をおきかへてこころと魂を密接にして魂を生かす様にすれば臆病はなくなる。
肉体の病により、心に傷つき魂に迄傷ついて臆病になる。之は小児等に多い。
心をひねくれて育てて魂をおさへつけるから臆病になる。
子供のたましひは苗木のようなもので、育てるのが子をみちびく者の任務。
然し之はむづかしい。自分の個性がわからぬ者が子供の個性がわかり様がない。
肉体は一分計、心は五分計、たましひは一寸計で計る。


セイキョウ貴尊講義(光明論より)


「円海が会員に対して尺度計を与へると語り居りしは、即ち厳戒の辞を正しく用ゆる方法を語りしにて、普通の目盛りしたる尺度計と異なり。是が念力を一段一段と強からしめて、信ずる力を強力にはたらかせ、魂を完全に育つる事を計る術を、尺度計にたとえて伝へんと語りたるなり。完全な拝みを一回二回と重ぬるも、是一段一段と階を上り行くが故に、天界の階段を一歩一歩上り行く尺度計となるは、是理なるべし。世人はこれらの教へを受るに当たり、唯然あるかとのみにて耳をかすめなば、勿体なき事にて所謂猫に小判の譬喩とならん。心して勿体なし、有難しとの思ひを充分心に貯へて教へを受くべし。軽率に聞き流し軽率に取り扱ふことなかれ。もし軽率に取り扱はば転落する憂ひあらん。
是は恐怖心を抱かせんが為に用いたる言葉にあらず。語る者は一心不乱なり。聞く者一心不乱ならざるべからず。教ゆる者、教へられる皆共に心を一にして真剣なる態度にて、伝授にあづかれよと注意するものなり。」


心はたへず休まないから結果期がない。
たましひは亡びないが、亡びるのは心。
心はたましひと肉体の中間性だから、肉体と魂がはなれると消滅する。
たましひさへ見付けて置いてやったら迷ふ事はない。
世の中は時々刻々変化して行く。変化しないものは魂だけ。
心の教育だけではだめ。魂の教育でなければいけない。
魂をしっかりと伸ばすだけの修養をしなければいけない。
理屈で教育しても理屈通りになるものではない。之は心だけ、或る程度で消滅する。
理屈はああもこうも言へる。然し大自然に順応した教育だったら終始なくして不滅。
悪しくも善くも自由自在。
大自然にも長所短所あり。之は表裏があるから。之を一体化した教育は不滅。
例へば心の教育では贅沢は悪いと言っても、本心は贅沢したい。然し魂を見付けたらそんな事は問題にしなくなる。
自分の心の美しさ丈の身だしなみをする事。
俊策氏は最早立派な魂の衣を纏っている。死後のこれまでの修行は苦しんだ。然し今は自由である。
肉体のある間にはこの修行は楽である。心をあまりに使ひすぎるから、乱用し過ぎるから魂に接近出来ない。
一筋にたましひによって行こうとする事。之で自然にわかって来る。
自然にたましひと心が一体化する。
肉体の親は心。心の親は魂と思って親に頼る事。
心を使ひすぎる。心ばかりを焦らせて居ても駄目。
五分計を早く一寸計にせねばならぬ。
之を反対に五分計を一分計に化して行くから物が面倒になる。之を一寸見て、あれを一寸見とれて、あれをうちの子供に着せてやったら等と考へるから子供はねだる様になる。
そして買い与へて段々虚栄心を強くして行く。之を押さえつけると他人ものにてをつける様になる。
肉体の健全を計る法を講じ、それに従って魂の教育して行けば子は親に順ずる。たましひを大自然にまかす様にすればよい。
(現在の世間の状態は一分計で計れば融和期、一寸計では未だ破壊期だから現在は致し方ないが)

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