覚者慈音1644      未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1644
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇     
第六十四      因果の測定について   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・31


 我、尺度計について説明なしたるについては深き意味ありて語りたるなり。易学を誇大に吹聴して世人に知らしめんと思ひてにはあらず。要は他に存す。ものに尺度の定まりあればこそ、世は治まり、進化の望みは叶へられ、又是と反対に退歩転落の悩みは生ずることは、尺度計に依って計るにあらざれば、是非を判断することあたはざるに依って、斯るものを掲げて参考となしたるなり。尺度計によりて物の中心を計らずば、一方へ傾くことは誰もがよく知る処ならん。全宇宙の様を眼をあげてよく見るべし。実在なし居るものは、すべて尺度によってその位置をそなへ居るが故に、持続なして消滅せざるなり。されど中心を失ひて尺度をあやまちたるものは、破壊されて散乱す。是等の道理を知るならば、其に対して自己の修養修行に対して尺度をあやまたざる心がけ肝要ならん。肉体の中心を失はば忽ち到る。心の中心を失はば心に傷くは是又理なるべし。分を知ると云ふは即ち尺度を云ふなり。己の分を知らずして、その位置をはなるるならば傾きて倒る。此分りきりたることに対して世人は心附かざるは、己の分度を計る法を知らざるによってならん。自己の分度を計る方法については、種々様々尺度の用法はあれど、是等のすべてを列挙して説明なすことは、其折々の事柄に対して逐次説明せざれば、世人には納得することは難かるべし。
 されど己を知るは己にあり。己自ら己を知らざる人は、己の程度を計り得る物指を用いざるが故に、ややもすれば冒険なることを敢てして、果は傷く例は尠なからずあるならん。小児が常に危きことをなし居るも、己の尺度を計らざるが故に母は是をあやまたざらしめんがために、常に心を用いて注意なし居る事は世人もよく知る処ならん。小児の間は同じあやまちを幾度も重ぬることに依って、自然にその行ひを自得して、智識加はるに至って、漸く是を制止するに至る。此智識の度加はり行くは物指の分度を知るに至りたるが故なり。世人は長じて後と雖も過誤は屡々繰り返へし居るならん。一度誤ちてその行ひに対して正しからざりしため傷きしことを覚ることに依て、初めて迷ひより醒むるもあやまちを冒せし時は、是を計る尺度を知らざりし結果なりしことも、後にて悟るに至るは一般のならはしなるべし。泳ぎを知らざるものが、溺れし他人を救はんとして水に飛び入る如きは是、尺度の中心を失ひたるが故に、自他共に溺るるに至るなり。尺度の用法の是非は先づ斯くの如きを云ふなり。

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