覚者慈音1645      未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1645
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇     
第六十四      因果の測定について   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2020・01・01


 先にも語りし如く己の肉体に対しても、常に重心を整へて歩みを続くるにあらざればつまづきて倒る。此分り切りたる事柄に対してすら、世人の歩みは常に傍目をなし居るによって、重心は失ひがちとなることより推知し見よ。然る時は重心とは那辺にあるかも従って悟ることを得るならん。所謂正しく知りて其居を変へるとも、其位置を失はざれば、正しき中心を持続することを得ると承知せば可ならん。先にも語りし如く過去現在未来の三世は即ち瞬間にもありと説きたる如く、一歩進めば過去現在未来はその一歩々々によって持続なし居ることは、世人も既に承知なし居るならん。所謂中心は現在にして、両端は過去と未来、左右も又過去未来の関係と知らば可なり。独楽は中心を正しくするにあらざれば、廻転はなすものにあらず。中心正しければ正しく廻転する如く、独楽の廻転する間は、過去現在未来共に正しき廻転をなし居ることと思ふべし。重心定まりたる独楽は尺度の正しき故なり。即ち正しき尺度計を正しく用ゆるが故に、すぐれたる廻転をなし居るなり。正しき生活を営めよと云ふことは、中心を常に正しくせよと云ふことなりとの意味をよくよく味はふべし。迷ひと云ふは中心を失ふ故なり。信ずるも偏らばあやまちたる信となる。中心を失はずしてものを測定なし居らば、すべてのものは明らかに見ることを得るなり。他人のことは俗言に云ふ「をかめ八目」とか称して、よく良否を判断することは得れど、其が己自らにありては解し難きこと多からん。是等は自己の中心を失ひ居るによってなり。他人の事はよく分ると云ふは己第三者となりて中心を失はず。其を見るによって測定することは得るなり。ここに注意すべきことは其講に述べたる尺度計について、前後左右と説きたるが故に、世人は是を平面的に観察なさば誤解を醸す。故に是は立体的に観察せざるべからず。我が語りし前後左右と云ひしは立体的の前後左右上下を示めすと知られんことを望む。恰も地球の中心を指したりと思はば従って推知することを得るならん。ここに一言注意しをく。一個の種子が外皮が死したるものの如く思はるれど、その中心は生を有することによって地上に下さるれば、中心より生の力がもり上りて外皮を破り、上下へと現出するに至るなり。然して尚中心の力が次第にそのまま失はれず進化なし居るによって、花は開らき実を結ぶ。更に又種子となりてその種子に中心の生命を残して終る。斯ることを幾度も繰り返へし居る点より人間に限らず、すべての物の中心とは何かを考へ見ば、因果の法則は推して知ることを得るならん。中心は如何に尊きか、又不老不死とは如何なるものか。所謂中心こそ不老不死なるべきことも従ってうなずかれ、又不滅なることも推して知るならん。一個の種子が育ちて花を開らき実を結び、又種子にかへりて更に生ひ育つ。斯くして不滅は持続なし居る如く、人の魂も亦不滅なることの理は、察するを得るならん。現在の汝は、過去も汝なりしなり。又未来来世へと永劫、汝は持続して死することはあらざるなり。失はれたるものは、唯順序によりて捨てられたる、衣にすぎざるなり。今汝は幼き時の姿を写真によって眺むる時、我も斯る姿なりしかと見て、何か其処に悟りの念は起らざるか。母に抱かるる幼き汝は、今父となりて、汝の幼児を膝に乗せ居るにてはあらざるか。是等の事柄を尺度より計算して、母に抱かれし汝、汝が抱き居る我児と対照して測定し見よ。其処に何か覚る処はあらざるか。我等は多くは語らじ。自得せよとのみ語るに止めん。

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