覚者慈音1646      未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1646
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇     
第六十四      因果の測定について   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2020・01・01


 姿は写真に依って見ることを得れども汝の魂は何によって見ることを得るや。生れざりし過去の汝は、如何ありしかを知ることは得がたからん。未来に於ても亦然り。されど汝は古来より永久に死せずして、未来へ未来へと居を換えて進み行けど、己を知るは現在のみならん。その己を知る現在は即ち中心なるべし。この中心なくして過去未来を測定することを得んや。中心あればこそ過去未来は覚ることを得るにてはあらざるかと、先づ自問自答せよ。我等は単に仏教などの因果論を語りて、世人に哀愁を感ぜしめんとはかるにあらず。又後生を得よと語るにもあらざるなり。後生を得よと語らずとも汝は死せざるが故なり。
 測定をあやまたば、過去に返りて再び三度苦痛をくり返へすこともあるならん。我等は世人をして過去に退却せしめず。未来へ向上進化せしめんと計るにすぎざるなり。望むらくは測定を正しく計りて現在の中心を失はず、その中心を持続して明らかに、前方を測定して進む方法を考案工夫せば、従って転落はまぬがるる道理を説き居るにすぎず。故に現在は大切なり。現在を忘れて未来を考ふれば、其は中心をあやまつ故なり。中心とは即ち現在を指すなり。例へば物指の一分にも五厘の中心は具はる如く、是を如何に小さくすとも亦是を如何に大にすとも中心を失はずば、傾き傾くものにはあらざることは世人もよく知るならん。其にも不拘其中心をあやまつが故に、日々の行ひに対しても、あやまちを重ねて失敗なし居るにてはあらざるか。一秒の時間にも中心はあるなり。空しき光陰を過ごすこと勿れ。秒時と雖もゆるがせにすべからず。中心は現在なりと知らば其にて尺度は定まる。
 我、先に語りし順八逆六の法は中心より測定して其にめもりをつけたるが故に、あやまたざる物指は組織されたることも世人は又知る処ならん。太陽と地球の直角を中心として時間を定めたるも、是中心を主として組織されたるが故に、正しき時間は計ることを得るならん。然りとせばものの定理は中心を旨として計りたるが故なりとの理も、従って判明するならん。自我心と魂との一体は、即ち中心なるべし。自我心即魂、魂即自我心の関係を知るならば、自我心の向上したる結果は、魂に帰すとの理も推してうなずかるる筈なり。魂は即ち汝なり。自我心も亦汝なり。されば何れが因にて何れが果なるかに及びて、考慮を廻らし見よ。然る時は即身即仏、即心即神の理は従って明らかとならん。又神の存在は何処にありやも従って察することを得るに至ると、教へられしことに対しての理も、次第に感じ来るにてはあらざるかと思ふなり。因は汝なり。果は亦汝なり。恰も蚕の其如く一眠りしては皮を脱ぎ、一眠りしては皮を捨て、結果に至って姿を蛾に変へて、更に種子を残して終るに等し。されど蚕は永久蚕なるべし。

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