覚者慈音1647      未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1647
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇     
第六十四      因果の測定について   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2020・01・01


 我、斯く語り居る時慈音は我に対してたづねて曰く、「蚕は永久蚕ならば人も亦永久人なるべし。されば我等も永久人の持続にて仏心とはならざるにてはあらざるか」。又曰く、「我は母より生れ、然して子を儲けて吾は死す。されど我母は我にあらず。我児も亦我にあらず。母も子も人なるが故に人としての持続は永久絶えざらん。されど死する我は其にて終りを告げたるにてはあらざるか」との質問なり。
慈音よ、汝は既に是等の理論をよくわきまへ、事実の証明を得て既にさとり居るにてはあらざるか。然るに欣情をはじめ世人を欺き更に我をも欺かんとなすや。欣情は欺き得とも、我は欺かるる者にあらず。汝の意中は那辺にあるかも我はよく知る。汝は余りに己を低ぅし居りて、却て罪を犯す結果をもたらし居るは何と云ふ浅智慧ぞ。厳しく叱らんとは思へど、汝の心は欣情をして正しき覚りを得しめんとの情(なさけ)心を現はし居ることを知るによって咎むることはなさざるべし。さりながら今後と雖も斯る振舞をなすこと勿れ。よって汝には答ふるの要なし。されど迷ひを深くして未ださとりに至らざる欣情に対して或は世人に対して答へをなさん。欣情よ。聴くべし。慈音は汝に対して従来如何なることを語りしやに心をむけよ。慈音は常に母と語り、或は汝の夫の眠り居るを見て汝に斯くと告げ居るにてはあらざるか。其にも不拘斯る質問を我に向くるは、汝をして速かにさとらしめんとの思ひより出でたるにて、従来汝に語りしことは偽はりにはあらざるなり。もし慈音が我に対して斯る質問をまことしやかに述べたりとせば、慈音は汝を従来より欺き来りたるにてはあらざるか。人は人にて終るものならば汝の夫も浮住界に眠り居ることはあらざるべし。然りとせば天界には否他界には何ものも存在せず、凡てのものは地球上に存在して同じ道を流転するにすぎざらん。何故慈音は我に斯る質問をなせしかと云ふに、汝は尺度計の中心を如何にすべきかと慈音に質問なしたるに対して、慈音は是が測定の法を汝に自覚せしめんがために我より答へを求めて、己の身を低ぅせんとはかりたる所謂方便の方法なりしなり。欣情よ。汝は未だ肉体を抱えて魂を知らず。肉体にのみ重点ををき居ることを慈音は悲しみ居るなり。蚕が繭を残し蛾となりて更に子を残して死すと云はば、其実在せるものにのみ囚はれて、蛾となりたるものの魂が如何になり行くかを、計算に入れざることは汝の心境なるべし。汝は魂を何かの方法によりて実在的に、化せしめて其を見きはめてさとらんとはかるが故に、迷ひは益々深くなり居るなり。空(くう)なるものは空に和す。空なるものを実在化せしめて考ふる時は、既に空をはなれて実在へ実在へと歩みを運ぶの他なかるべし。空より空を求めて歩みを進むれば、はてなく空は持続するの理なることは、よく知る処なるに不拘、空を実在化せしめて其を以てさとらんとするが故に、或は右し或は左す。故に歩みは遅々として振はず、亦さとることも得ずして迷ひ居るなり。空は空なり。実は実なりとの思ひあらば、尺度のはかる中心は那辺にあるかもよく判明する筈なり。現在慈音が行ひ居る行にたいしても、慈音は汝等に語るに死後の行なりと称へ居れり。されど事実は左にあらず。慈音の行は所謂屍に生を得せしめ居るにて、所謂反対の言葉にて汝等に語り居るなり。生きたる屍と、屍に生を与へるとの相違はその意味に於て相似たる感あれど事実は逆なり。恰も傀儡師(くぐつし)が絡操人形を働かせ居ると同様の修行をなしつつあるなり。是は空より実在を作るの法則を修行なし居るにて、実在より空にかへる修行にはあらざるなり。そればこそ慈音の苦みは、汝等が思ふ如く簡単なるものにてはあらずして、その悩みの苦痛は如何に推測すとも事実に於て直面したる者にあらざれば、到底認識することは難く、又如何に同情すとも其は通ぜざるべし。
  
参照  死後の行とは
 覚者慈音519

×

非ログインユーザーとして返信する