覚者慈音1648      未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1648
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇     
第六十四      因果の測定について   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2020・01・02


 慈音は此行を捨てんと云ふは死せんと云ふ事にて、行を止むれば彼は死体を残して去るの他なきなり。然るに彼は己を何処迄も低ぅして、世人にその真実を知らしめじと謀り居るにて、彼の意中は我等にのみ知り得れど、世人には到底測り難きは当然なり。欣情よ。汝の魂は空なり。これを実在化せしめて、其によってさとらんとはかることは空しき考へなれば、速に是を棄てて早く真の信を得て、明らかに魂の光明を得よ。然することによって正しきさとりは得られん。さとれば訳もなきものなれど、さとる迄の迷ひはすべて実在化によって、何ものかを把握せんと工夫努力するが故に、益々迷ひは深刻となるなり。
 慈音は子を残して己の屍をすてなば残りしは子と屍の二つに止まるものならば、彼の魂は消滅して其にて終る。是より人より人への持続と考ふれば、慈音の生命は其にてつきる結果となることより、人より人への持続、蚕より蚕の持続との考へは、凡て実在より実在への延長にすぎず。実在より実在への延長となるものならば、空より空への延長はなかるべからず。実在より実在へは限度あり。空より空へは限度なし。実在を中心として尺度計を用いるならば、根には実在より実在となり、空へのぼらしむれば空より空へと測定はなし得らるるなり。然りとせば中心は実在と空をつなぐ境界を指すにてはあらざるか。空なりし汝は今実在なし居るにてはあらざるか。然りとせば空より実在、実在より実在へと持続はあれど、逆に実在より実在へと返せば、即ち実在即空となるにてはあらざるか。前巻すべてを読み尽したる人ならば此理はよく承知し居る筈なり。尚更事新らしく魂論を掲げて論ずるの要あらん。是は慈音の問に対して欣情とこの後此書を読むものの参考に迄語りて答へとなさん。空と云へば世人は何もなき空虚を想像するが故にここに迷ひを生ずるなり。例へば空気の中には種々様々のものの含まれあることは、是空の中に存在せる実在のものあるが故に、是を何かの方法にて鑑別することを得るなり。故に空は空虚にあらず。即ち実在なし居るが故なり。然るに是を世人は肉眼にて見きはめんとなすが故に、空気は空虚と見ゆるのみにて、その中に含まれある種々様々のものを鑑別することあたはず。唯肉眼を主としてものの尺度を計り居るなり。恰も欣情が魂を何か実在化せしめんと迷ひ居るに等し。欣情は即ち肉体に囚はれ居るが故なり。例へば慈音が欣情を見る時、彼は如何に眼を見はるとも肉眼にては欣情の姿を見ることは難し。されど彼は欣情をよく見る。是は空より空の合致によって、さとり知ることを得るによって、すべての様を明らかに知り居るなり。知り居て語らざるは、肉眼と心眼との相違を知るによって、もしあやまてば一方は暗く、一方は明るきことを知るによって黙し居るなり。慈音にして肉眼共に明らかならば其は躊躇なく答ふるならん。この事柄よりさとりの道を工夫せば、すべての道理は推知なすことも至難にはあらざる道理あらんと思ふなり。慈音の質問の如く人より人に化せられてはてしなく持続するは、即ち人間と云ふ大切なるものを作らんがために種子を残し居るにすぎず。恰も蚕の其の如し。所謂動物性の種族を地にをきて長くよき稔りを得せしめんがためなるべし。是は神の望み給ふ処にして、我等のあづかり知る処にあらず。人より人を残すは即ち人根なり。人根は地界に育つ。人根稔りて得たる魂の稔りは空高く天空に帰るも亦理なるべし。然るに天空へは帰らず、徒らに宙にさ迷ひて又も他の肉体に宿る如きは、これ神の好み給ふ処にあらざるならん。斯ることは従来よりしばしばくり返へされつつある事にて、斯ることを掲載するは徒らに紙面を汚すのみなり。蚕を蛾に化せしめずして繭にて終らしめなば、蚕は子孫を残すことあたずして終らん。是等の理も亦察することを得ん。繭にて終らしむるは殺生戒か、或は殺生戒にあらざるかを考慮し見よ。

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