覚者慈音1634   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1634
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇     
第六十二      完全なる魂と不完全なる魂   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・29


 我等世人の修養なし居る様を見るに、生活と拝みとを区分して、行じ居るは一般の風習なり。斯る法を用い居りては如何に努力するとも、空に終るは当然なり。生活は生活、拝みは拝みと、別々の方法にては結果は、別々となるが故なり。即ち肉体は肉体、魂は魂と切りはなして行じ居らば、三味一体とはならざることは理なるべし。故に正しき法に従はざるべからず。正しき法とは生活と拝みとを一体化せしむるにあらざれば、法に合はざることに意を用いずば目的は達し難し。例へば米を作るに苗を育て、是に適当なる肥料をあたへ、然して害虫に犯されざるやぅ注意して育つるは、是米を作るの順序なるべし。信仰に於ても亦同様の関係あるなり。肉体を先づ整へ、然して魂と云ふ米を稔らすにあらざれば、完全なる稔りは得られざると同様の関係と覚らざるべからず。是をなさしむるものは造り主なる自我心にありと覚らば、従って法は正しく行はるる道理あらん。自我心に相当する造り主は、肉体に相当する稲を完全に育つるにあらざれば、魂に相当する米を稔らすことは難かるべし。されど目的は米にあるにて藁を作るにあらざるべし。ここに拝みの重大なる意味は存すと考へざるべからず。肉体ありての魂なるが故に、先づ肉体の発育する間も米と云ふ大切なるものを忘れずば、拝みは、従って肉体と魂の一体化をはかる拝みとなるは理なるべし。然るに世人は藁にのみ意を用いて、米の稔りを忘れ居るにてはあらざるか。故に肉体にのみ肥料を施して、遂には其がために病害を誘発せしめて、稔りを得せしめずして、終ること多きを見るは遺憾なり。肉体を育つるは、魂を育てんがためなりとの念を、念として、常に魂のための肉体を大切に育てずば、望みは達し難し。貴尊が米を作らんとして、藁にて終らしむる勿れと仰せられしは是なり。世人の拝みは藁にて終らしむる拝みを持続し居りて、大切なる米を稔らす拝みをなさざるが故に、病害の苦を受くるは多からん。さればこそ世には自殺などなして、稔らざる先に藁を苅りとる如きことを為し居るにてはあらざるか。是耕作主なる自我心の不心得より、斯る過誤を惹起すに至るなり。生活とは魂を作らんがための生活にあらざれば、正しき世渡りはなし難し。世の中を渡るには、多くの困難は避け難し。其困苦に耐ゆる肉体を育つるにあらざれば、完全なる魂の稔りは得られざるべし。稲はすくすく成長なし居る如く見ゆれど決して然らず。気候の変化によりて或はなやみ、或は苦しみ悶へて育ち居ることに、世人は心附かざるならん。無心の如き稲に於ても、稔りを得んがためには困苦に堪えて育ち居るにて、無言詞にて世人の耳には通ぜざれど、是を知るものは即ち霊なり。故に霊は是を救ひて、其全きを得せしめ居るなり。されば是を食する者、造り主の農夫に感謝する如く、田にも稲にも、感謝の心もて是を喰はずば勿体なしとは考へざるか。

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