覚者慈音1633   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1633
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇     
第六十一      自我魂と霊との関係   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・28


 人には清濁の区あり。汚れたるものを洗ひきよむるは、仏の慈悲なり。神の恵なりと知るならば、如何にしてか悪人を憎むことを得んや。罪を犯すものはあはれむべき悪者なり。是を賢者に引き上ぐるは、指導者の任務なるべし。指導者は任務を怠るが故に、悪人ははびこるなり。所謂彼等を洗ひきよめやらざるが故に、垢づきを多くなし居る故に汚れたるものは尚も汚れを重ねて、その垢は容易に脱することを得ざるに至る。罰すると云ふも慈悲の法なり。されど慈悲の罰にあらざれば、汚れは消滅するものにあらず。世人の行ひ居る処罰は憎しみのための処罰るが故に、汚れは脱落せざるなりと知らば、ここに一段の工夫なかるべからず。神は人を罰するのみにあらずと仰せられし貴尊の言葉をよくよく翫味すべし。
 子を鞭打つ親の手は慈悲なり。憎悪を含む憎にはあらざるべし。然るに世には憎悪の心より鞭打つ親の多くあることは遺憾なり。人は座禅静座して行ずるも身心を魂に到らしめんがための方法なれど、その座禅静座は一時のはたらきにして、霊の力が其時に応じて、魂に身心を加へて暫時光を見するにすぎざるなり。人は日々静座座禅をなし居りては、大切なる生活の道は得られざるならん。故に斯る方法にては永久の魂を求むることは、一般人には行ひ難きこともあるが故に、万人悉く見性することは困難となり居るなり。一度見性して一時の光明を得たりとて、直ちにもとに復せば其は無意義のこととなる。故に時間をいささか長くすとも生涯を通じて拝みをなし、其力を習慣性として持続し居らば、見性成仏の姿は永久失はれざることに思ひを致して、一日々々と信仰の度を加へて、遂に目的を達することに尽力せば可ならん。

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