覚者慈音1632 未知日記 第九巻 因果論 人身篇 第四巻 インショウ、ミキョウ貴尊講述
覚者慈音1632
未知日記 第九巻 因果論
第四の巻
心霊篇
第六十一 自我魂と霊との関係
インショウ、ミキョウ貴尊講述
2019・12・28
慈悲とはすべてのものをいたはり育つるにて、憎み罰する底の愛にはあらざるなり。光明とは光にあらず。慈悲の現はれこそ、即ち赫々たる光明なりと知るべし。斯くして魂は円満さる。円満されたる魂が霊に通ずることによって、次第次第にその輝きが強くなりて、すべてを救ふに役だつ。是神通力と云ふなり。霊の力を魂にうつし、然してすべてを照らす。照らすとはすべてを慈悲の力にて飽和してもらさざるを云ふなり。この程度に達しなば天眼地眼のまなこは明らかなり。明らかなるが故に、如何なるものも救ひ出すことを得るは、是又真実ならん。座してその居にありながら、すべてを救ふ。是神通力にあらずして何ぞや。言はずもがな察することを得るならん。身心が魂に和して円満したるにあらざれば、如何に語るとも世人には解することを得ざるべし。其は世人の未だこの居に達せざるが故なり。この居に移されての後この書を見るならば、合点納得は得らるるならん。其迄この書は読むに止めて遺存しをかば可ならん。
百人の善人を愛せんよりは寧ろ一人の悪人を愛せよ。所謂貧者の一燈長者の万燈と云ふも、この慈悲の心よりほとばしり出づる言葉ならん。世人は悪人を嫌らひ、善人を喜ぶは未だ慈悲の心に化し居らざるが故なり。真の慈悲の心に化せらるれば、悪人を憎む心は起らざるべし。罰すると云ふは愛するが故なり。罪を罰して悪を去らしめんとはかる方便の法より出でたるにて、憎みて罰するにはあらざるなり。然るを罰せられて悔ひ改めたる悪人に対しても、尚もつまはじきする如き世人の心は、未だ愛といふものを正しく認識なし居らざるが故なり。