覚者慈音1631   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1631
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇     
第六十一      自我魂と霊との関係   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・28


 悟らんすれば悟らんとする処に、自我心は固着して却てさとりをさまたぐ。拝みする心は即ち差を取るが故に一体となりて疑惑は消滅して、ここに初めて正しき悟りと変ずることは、火を賭けるよりも明らかなり。迷ふと云ふは障壁あるが故なり。障壁を取り去らば戸は開らかる。門戸開らかれて自由に侵入することを得るは是又理なるべし。迷ひあらば他に心を移さず唯拝みせよ。求めよ。得られん。叩けよ。開らかれんと云ふは、即ち拝みなり。求むるも叩くもみな拝みに勝る力なく、又是に勝る法は他にあらざるなり。拝めば拝む程信仰は強くなるなり。信仰の度加はるに従ひて、拝みの力もすぐれ行くなり。願ふにあらず。求むるにあらず。唯何かは知らず拝みせざるべからざる底の拝みにあらざれば、法には合はず。法に合はざれば真の拝みにとはならざるなり。既に拝みする心に移さるれば其だけ信仰の度はたかめられたるなり。拝みを忘れ居る底の行は、其は気まぐれ信仰にて、未だ疑心の加はり居るが故なり。止むに止まれぬ底の拝みにうつさるれば、其にて其人の信仰は強くなりたりと思はば可なり。有難きが故に拝み、尊きが故に拝む底の信仰は、未だ正しき信仰にあらず。拝みすることによって有難し、尊し、勿体なしとの念が次第にそなはり来る底の信仰ならでは通ずるものにあらず。身心が魂に化せられての拝みは、斯くの如き姿となるによって、魂の力はすぐれ行くなり。身心の魂に化せられざる間は、正しき拝みをなすことを得ず。故に願ひの拝みとなるなり。願ひ求むる拝みする間は、未だ身心が魂に化せられざるなりと思ひて、有難し尊しと云ふ本心より湧き出づる底の拝みとなりたる時、ここに初めて成仏の姿となるなり。故に魂は仏なりと云ふなり。ずべての差をとり、すべての汚れをとり去らば、即ち光明は輝く。是仏なり。光明とは慈悲なり。世人の考ふる如き憎悪を含む愛にはあらざるなり。

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