覚者慈音1630   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1630
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇     
第六十一      自我魂と霊との関係   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・28


 例へば一に相当するならば、霊は一の力にて是に和し、百のものならば又百に同化して是に和し居るに依て、その対照物の力の程度に従ひて和し居るは、是即ち自然の姿なるが故なり。肉体には肉体に比例して和し、心には心に比例して和し、魂に於ても亦同様比例の力にて和し居るが故に、世人には霊のありやなきやを知ることを得ざるなり。この論旨より推考せば、信仰とは何かと云ふことも明らかに察するを得るならん。身心魂の力が一体と化して拡大せらるる時、霊も亦是に和するが故にその力は大となることも、是信仰の力が進むに従ひて次第に高くせらるるは、みな霊の徳なることに留意せば、自づと信仰の一大事は見のがすことを得ざるべし。貴尊方が仰せられし、神を知るものは、霊なりと説かれしは是なり。神は大自然の霊を以て、すべてを作らせ給ひしが故に、神に通ずるものは、即ち大自然の霊なりとの理も、推して知ることを得るならん。故に信仰とは魂を霊に通ぜしむるにあらざれば、正しき神を知ることは難し。自然に帰れよと教へ、或は自然に順ぜよと説き居るも、即ち帰する処は霊を求よと云ふにあるなり。霊の力は広大無辺なり。獏(ばく)より千極(きょく)に上るとも、霊の力は其以上のはたらきを有するが故なり。所謂信仰とは霊の道を辿るにあらざれば通ずるものにあらず。霊に和し、霊に従ひてはじめて神に通ずる道は開らかる。肉体は肉体、心は心、魂は魂と区分せらるる間は、霊も亦是に区分されて存するが故に、正しき道を歩むことは難し。肉体は肉体の道を歩み、心は心の道を迷ひ、魂は唯悠然として霊に附游し居りては、是宙に迷ふの他なかるべし。即ち生きて存在しながら、魂を浮住界に迷はせ居りては進退共にさ迷ふのみにて、達する処に到ること思ひもよらず。此理は世人もよく頷るる処ならんと思ふなり。世人は身心をはたらかすことのみにて、魂をはたらかせず、徒らに天命を光陰にうつし居ることは、空しく地上に遊ぶに過ぎざるならん。故に信仰の度をたかめて自我心を魂にうつし、然して身心魂三味一体となりて、更に是を霊にゆだねなば、霊の力は魂を育て、はてしなく引き上げ、軈ては神の世界にうつすことは是又道理なるべし。故に拝みする心、信ずる心を断間なく、油断なく行ひ居らば、其にて行は全きを得るなり。

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