覚者慈音1629   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述


覚者慈音1629
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇     
第六十一      自我魂と霊との関係   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・27


 自我心と自我魂同化することよって、ここに人数の千のはたらきが全て消滅して初めて万の位に達す。是を仏教にては仏に化せられたりと云ふなり。所謂人界終りて仏階に移されたると思はば可ならん。万とは即ち満たさるるの意味なるべし。人数充たされて万となる。自我魂に化せられても、肉体を有する間は億とは云はれざるなり。肉体及び自我心尽きて、ここに魂は億の階に移されると承知せられたし。所謂億とは充たされたるものの尽きたる姿を云ふなり。億の後は語るも詮なしと思へど語らずば、修養修行の道は開らかれざるが故に、身心尽きても尚魂は残存して、更に歩みを続くるが故に、是は世人に取りては来世論の如く思ふならんも、我に云はしむれば、心魂持続の法則にして、魂の消滅することなきを以て云はば汝の魂は尚も歩みを進めて到る処迄、到らしむる道あるによって、語らんとなすなり。身心尽きれば、魂は霊によって更に運ばるることを、先づ考慮せざるべからず。斯く語らば身心魂のある間は、霊の必要はあらざるかとの疑惑を生ずるならん。されど事実は前巻より、霊は黙して語らず。語らざれど断間なくはたらき居ることは、既に世人も承知なし居るところならん。
 身心魂の三味一体となりて、霊の尊さを初めて知る。されど一体とならざる間は、心づかずして、霊なるものに背をむけ居ることは屡々語りし如くなり。恰も幼児時代は母に従ひ、長じて母を失はば更に何かを求むる如く、自我心は幼児の其と同様にて、魂の力を求め居るが故に、霊に迄到達することを得ずして、自我心自我魂一体となるに至って、はじめて霊を知るに至ることは、恰も幼児の長じて母以上のものを求むるに等しと思はば可ならん。この理は道の開らかれて通じたるが故に、ここに通力は完全に行はれて霊の尊きを初めて見たる故なり。肉体は心に従ひ、心は魂に従ふにあらざれば、魂は霊に従はざる道理も亦推して知ることを得るならん。然らば霊は如何にと云ふに霊は身心魂共に通じて常にはなれず補佐なし居ることは、是霊の力の常に具備あることは云ふ迄もなし。この力加はりあるが迄に身心魂は育てられ居るなり。霊は自然なり。自然に従へと云ふことは、即ち霊を知れよと云ふことにて、所謂霊に順ぜよと云ふことは、自然に従へよと云ふことなり。霊は自然なるが故に、決してその対照物と常に同化して争ふことをなさず。

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