覚者慈音1635   未知日記 第九巻   因果論  人身篇  第四巻      インショウ、ミキョウ貴尊講述

覚者慈音1635
未知日記 第九巻 因果論       
第四の巻
心霊篇     
第六十二      完全なる魂と不完全なる魂   
        インショウ、ミキョウ貴尊講述
           2019・12・29


 感謝して喰ふ時、その米のはたらきが汝等を救ふ力も亦加はらん。米は全き稔りを結びて、はじめて成仏す。其仏の力は大なり。感謝せざるべからず。魂のなきものと考へて粗漏の取り扱ひをなして一粒たりとも空しく捨つることをなす勿れ。もし米に魂あるならば、彼はその任務を更に厚ぅして汝の魂にも養ひとならんこと疑ひなしと我は思ふが、世人は如何あらんか。すべてに対してこの心を起すに至らば汝の魂は既に仏と化したるが故なり。感謝する拝みは正しき法なり。悪人ありて善人を知る。是又汝にあたへられたる法の現はれなるべし。何となれば汝の心に善悪の区を明らめしむるが故なり。俗言に人のふり見て、我ふりなほせと云ふにてはあらざるか。感謝するが故に礼するなり。霊は感謝の現はれなるべし。道を歩みて大地に唾するは感謝の心にあらず。感謝する心あらばかかるあやまちはなし得られるものにあらず。汝が吐きし唾は、もし他人の身に及ぼさば如何なる結果となるやを考慮し見よ。汝に悪き病あらばその唾のために、他も悪き病とならん。微々たることと思へどかかる誤ちを犯す如き心は礼にあらず。又感謝の心が具りあらざるが故なり。かかる事に迄及ぶ念あらば、既に汝の心は魂に化せられつつありと知るべし。一滴の水をおろそかにせず、一片の菜の葉に至る迄慈悲の心を以て取り扱ふ迄、拝みをなすにあらざれば心魂一体の拝みとはならざるなり。所謂平常心、是道と云ふは即ち是なり。これはなさんとしてはなし難し。己の本心がこの域に達して、はじめてなし得らるるものにて一つ一つを考へて是を行ふ底の行なれば、其は苦みとなりて行ひ得るものあらず。修行修養とはかかる苦きものかと考ふるのみにて、行ひ難く思はるるは、是未だ正しき拝みの法を知らざるが故なり。即ちなさんとして行ふにあらず。行はずとも自然に行ふ底の域に達するにあらざれば、正しき法とはならざるなり。世人の中には修養修行をなさんとて、腐敗したる食物を勿体なしとて喰ひ居る人も見受けらるる是等はあやまりたる信仰にして正しからず。諺に、「肉裂きて正しからざれば、是を喰はず」と教へ居るにてはあらざるか。腐敗せしめたるは慈悲の心のあらざるが故なり。世人の中には勿体なしとか称して、食物をながく保存せんとして却て腐敗せしめて喰はれざるに至らしめ居ることを我等はよく見る。かかる生活はあやまりたる法を用い、或はあやまちたる拝みをなし居るが故に、かかる愚を敢てするものなり。日々の生活に於て肉体に傷けざるやぅ整へんがためにはすべて慈悲の心を肉体に移して、是を育てずば完全なる稔りは得られじ。

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